お題〈キス22題〉


この地球に還ってきて、彼女の元で暮らし始めて数ヶ月が経った。
その間、二人で静かに温かな人生を送っていた。

二人で同じベッドで朝を迎え、目を覚ますとすぐに愛しい人が視界に入る。
同じテーブルで食事をし、ソファで寄り添い合いながら、他愛もない話をして、日課のように彼女のピアノを聴く。
陽が暮れて、夜を迎えれば、また同じベッドで明日が来るのを心待ちにしている。

そんな毎日がこの上なく幸せで、これ以上は何も望めないほど満足だった。
生まれてから、こんなにも穏やかに人間らしく生きるなんて初めてだ。

最近は、何もなく静かな午後に、彼女の膝を借りて微睡むのが密かな楽しみになっている。
幾年月経っても変わらず美しい顔を下から見上げることができ、手を繋ぐこともできる。
絶えず優しく微笑んで、子守唄代わりに、思い出深いあの唄も歌ってくれるのだから。
じんわりと膝から伝わる彼女の体温を感じて、彼女の腹に顔を埋める。
「恥ずかしい」と言って、僅かに顔を赤らめるマリナがとても愛おしくて、緩く腰に手を回して、ぎゅうと顔を押し付けた。

とくん、とくん。
規則正しい、命を刻む音が体に響く。

少し速くなったリズムを聴きながら、女性は不思議だなと思う。
生き物は、雌の腹の中で育まれる。
人間の場合は一年近くもの間、ずっと母体から栄養を貰い、少しずつその形を形成していくのだ。
昔、なんとなく彼女に訊いてみたことがあった。
新たな命を宿した母体にはどんな変化が起こるのだ、と。
日に日に腹は大きくなっていき、様々な障害は訪れるものの、命を間近で感じ、狂おしいほどの激痛を伴って子を産む。
しかし、生まれた赤子を見たならば、それすらも愛おしく感じるのだろうと、マリナは慈しむように目を細めて言っていた。
ー結局、彼女は自身の子は成さなかったが、民すべてが己の子供のようなモノだと微笑む。
それはそれは、眩しく感じるほどの優しい表情で。

確か、母は強し…だったか。
子供…いや、護るべき存在が出来ると、女性は強くなるらしい。
しかし、それはすべてに当てはまるか。
家族や恋人ができれば、必然的に誰しも強くあろうとする。
守れるように、支えられるようにと。
だが、それでもそうやって言われるほどなら、 女性は本当に強いのかもしれない。

「…凄いな」
「何がかしら?刹那」
「君たち女性の話だ」

戦士として生きてきた俺でも、負けてしまうのだろうな。
生命を誕生させるなんて、肉体的にも精神的にも大変なことだろうに。
かくも女性は気高く、強い。

それを知ることができたのも、そう思えるようになったのも。
マリナに出逢えて、この場所に還ってこれたからだ。
死の恐怖と共に生きてきたこの半生は、そんなことを考えたり、知り、学ぶ暇も無く、教えてくれる人間も居なかった。
改めて命の尊さを学び、生きていることが嬉しい。
奪った命には、贖罪を。
救った命には、どうか幸せな未来を。
 
彼女の腹から伝わる命のリズムが心地よい。
子が親の心拍を聴いて眠るのと同じ効果をもたらすのか、それともこの温かさが心を解すのか。
俺にはよく分からなかったが、それでも微睡むほどに心地よい。

「…ただいま、マリナ」
「お帰りなさい、刹那」

優しく髪を撫でる彼女の手の感触と、聴覚に届いた唄を聴きながら、微かに滲んだ雫を感じた。
雫を拭う間もなく、俺の意識はゆっくりと揺らいでいった。
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