はじまりは眠りの森で
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【接近】
二人の修行は、すっかり日課となった。
汗ばむくらいの陽気の中、ひとしきりの修行を終えると、心地よい疲労が二人を包む。
並んで地面に寝転ぶと、瑠璃はあくびをもらした。
「眠たくなっちゃった……ちょっと寝てもいいかな?」
「ああ、どうせ屋敷じゃぐっすり眠れなかったんだろ?なんなら、腕枕してやろうか」
嫌悪感たっぷりに背を向けられるかと思いきや、伸ばした腕に迷わず頭をあずけた瑠璃に、竜尊の方が仰天した。
嫌がるという選択肢もない程に、眠気が勝っていたらしい。
彼女は、すぐに深い眠りに落ちた。
「無理もねえ……毎日、これだけ厳しい修行をして疲れがたまった上に、眠れないんじゃな」
竜尊は、瑠璃の頬をそっとなでる。
今は、ぐっすり寝かせてやろう。
のどかな時間がどのくらい経っただろう。
風に一抹の冷たさが混じり出した頃、安心しきった様子だったはずの瑠璃が、うなされ始めた。
「瑠璃……?」
竜尊が彼女の様子を見ようと体を動かした途端
「お兄ちゃん!」
叫び声とともに、瑠璃がガバッと起き上がった。その顔は、今にも泣き出しそうだ。
「あれ……竜尊……私、何を……」
隣でゆっくりと体を起こした竜尊に気付き、懸命に記憶を辿っているようだ。
「おまえが会いたかった相手は……兄さんか?」
「人の夢を覗いたの!?」
「そんなことはしてないさ。今、おまえが叫んだんだろ?『お兄ちゃん』って」
「あ……そうだったんだ、ごめん……」
気持ちを落ち着かせようと深く息を吸う瑠璃に視線を落としながら、竜尊がつぶやく。
「道ならぬ恋……か」
「違うのっ」
慌てて声をあげてから、瑠璃は目を伏せた。
「違う……私が一方的に想ってるだけ。……お兄ちゃんには、素敵な恋人がいるんだ」
叶わぬ想いと知りつつ、愛しさを手放すことの出来ない、切なげな女の顔。
「ふっ……自分の気持ちを、否定はしないんだな。まったく……おまえにそんな顔をさせる奴がいるなんて、許せんな」
「え?私、変な顔してた?」
珍しく表情をくるくると変えて焦る瑠璃を、竜尊が抱きしめた。
「変なんかじゃない……恋する女の顔さ」
逃れようとジタバタされることを予想していたが、彼女は身動ぎもせずに腕の中に収まっていた。
「そんな顔を、俺のために見せてほしいもんだな」
「……どうして?」
「おまえを俺のものにしたいからだ」
思わずこぼれた言葉に、竜尊自身驚いた。
心の奥底の声、というやつだろうか。
ふと気付くと、いつの間にか顔を上げた瑠璃が竜尊の瞳をじっと見つめていた。
まるで、懐かしい者に注ぐような愛しげな眼差しで……。
彼女が見ている相手は、自分ではない。
それでも、今目の前にいる自分にだったら、こいつに触れることが出来る……
竜尊は、そっと彼女の頭を撫でた。
その瞬間、はっと我に返る瑠璃。
「竜尊……だよね」
「ああ、今おまえが体をあずけてるのは、間違いなく俺だな」
「なんで……」
瑠璃はうつむいたが、悲しさや後悔の念は感じられない。
むしろ……
「竜尊……あなたから、とってもあったかい気が流れてくるんだ」
「そうか?」
「うん……だから、安心して触れていられる」
瑠璃は、竜尊の胸にもたれかかった。
華奢な体を抱き止め背を優しくたたきながら、竜尊は思いを巡らせる。
瑠璃を心から慈しむ想い
――彼女の兄も、家族として抱いていたであろう情愛――
きっとそれが、暖かな空気となって彼女に伝わっているのだろう。
俺の想いは、単なる家族愛なんかじゃないがな――
竜尊は、瑠璃の顔を両手で包み上を向かせると、そっと唇を重ねた。
「っ!!……んん……!?」
驚いて体を離そうと試みた瑠璃だったが、竜尊の力にはかなわない。
長い口づけを、おとなしく受け入れるほかなかった。
ようやく唇を離した竜尊を、瑠璃が涙目で見上げる。
抗議したいのに、言葉がうまく見つからないといった様子だ。
そんな彼女と瞳を合わせると、竜尊はポツリとつぶやく。
「俺はおまえに惚れちまった」
「惚れ……ええぇっ!?」
「おまえが、俺と同じ気持ちになるように、まじないをかけた」
「同じ……気持ち……?」
「ああ。俺は、おまえがほしい。体も心もだ。おまえも俺に、同じ想いを抱くようにっていう、まじないさ」
再びそっと口づけられ、真っ赤な瑠璃の顔が、さらに赤くなる。
「わ……わた……し、もう、帰るね」
いつもの彼女らしからぬ機敏さでスクッと立ち上がると、瑠璃は一目散に駆け出した。
脱兎のごとく走り去って行く彼女を見送りながら、竜尊は小さな笑みをもらした。
*
瑠璃の背中がすっかり見えなくなり、竜尊は祠に向かって踵を返した。
ふと顔を上げると、小屋の入り口で腕組みをして立っている祢々斬の姿が目に入った。
「よぉ、祢々斬。いつからそこにいた?」
「あの女が立ち上がる、ちょっと前からだ」
「……見てたのか?」
「覗き見してたわけじゃない、たまたま見えちまっただけだ。悪く思うな」
祢々斬が、腕組みを解き竜尊に歩み寄る。
「なあ、竜尊。近頃ずいぶんご機嫌なようだが……あの女が原因か?」
「当たらずとも遠からずってとこだな……それより、今日は時間あるんだろ?付き合えよ、うまい酒がある」
「ああ、元よりそのつもりだ」
小屋に入り、差し向かいで腰を下ろす。
手にした盃には口をつけず、祢々斬はまっすぐに竜尊を見た。
「単刀直入に聞こう。竜尊、おまえ、どういうつもりであの女と会っている?」
「…………まあ、飲めよ」
問いには答えずそう促すと、竜尊は盃になみなみと注いだ酒をグイッと飲み干した。
祢々斬も、それにならう。
二人分の空になった盃を再び酒で満たすと、しばしその水面を眺めていた竜尊が、口を開いた。
「あいつの傍らにいることが心地いい……例えるなら、清浄な空気の中に身を置くような感覚だな」
「はぁ?なんだそりゃ」
大きくため息を吐きながら、祢々斬が、まだ酒の残る盃を置いた。ゆっくりと顔を上げると、紅く燃える瞳で竜尊を見据える。
「色恋沙汰なら、勝手にやってくれ。俺の知ったことじゃない。だがな……」
笑みをたたえながらも鋭い視線を返す竜尊に、さらに語りかける。
「だが、忘れるな。あの女は人間で、俺らは鬼だ。お互いはじめから、決して交わることのない道を歩いてるんだ」
「ふっ……そんなことは百も承知だ」
「報われないのを承知の上で、それでもなお、想いを募らせている……そういうことか?」
「なんとでも思うがいいさ。俺とて、千代に栄えし鬼としての誇りくらいは持っている」
二人の真剣な眼差しがぶつかる。
にらみ合いの末、先にあきらめの混じった笑顔を見せたのは、祢々斬だった。
「ならば、これ以上俺が何を言っても無駄だな」
彼は、残りの酒を一気にあおると、空の盃を竜尊の前に差し出した。
「ほれ、客の盃が空いてるぞ、注げ」
「おまえ……何をえらそうに……」
「おまえが言うだけあって、確かにうまい酒だ。どこで手に入れた?まさか、あの女からの貢ぎ物なんて言わないだろうな?」
「はは、その『まさか』だ。だが、貢ぎ物とは人聞きが悪いな。修行を指導する報酬にと、自分の小遣いを貯めて買ってきたんだそうだ」
「おいおい、あの女は敵なんじゃないのか?そんなに信用して大丈夫か?」
眉をひそめる祢々斬に、竜尊は静かに微笑んでみせた。
「修行の時の瑠璃は、俺に全幅の信頼を寄せている。そして……俺はあいつを信じてる」
手にした盃を目の高さまで上げ、じっと眺めると、竜尊は言葉を続ける。
「一時の感情で、周りが見えなくなってる訳じゃない。たとえ、この酒に毒が盛られていたとしても……あいつの手にかかって死ぬのなら、それも悪くはない。そう思えるのさ」
「それを盲目の愛っていうんじゃないのか?」
呆れ顔の祢々斬に、竜尊が返す。
「年頃の娘が、簪(かんざし)やら綺麗な着物やらの店は素通りして、酒屋で俺のために頭を悩ませてくれたんだぜ?なかなか嬉しい光景じゃないか」
本当に嬉しそうに話す竜尊に、祢々斬は、自分の憂慮が馬鹿馬鹿しくさえ思えてきた。
「竜尊……おまえがあの女に、どれだけ惚れちまったかってのは、よくわかった」
決して結ばれることのない愛をあきらめさせるつもりで出向いてきた祢々斬だったが、竜尊の気持ちが動かないことを見てとり、納得せざるを得なかった。
「だが……」
祢々斬は、居住まいを正した。
「おまえの気持ちは充分過ぎるほどにわかった。だが、向こうの……肝腎な、あの女の気持ちはどうなんだ?」
一瞬、竜尊が固まった。
彼は、深いため息をつきながら眉間にしわを寄せた。
「あの女あの女、言うなよ。あいつにはちゃんと、瑠璃って名前があるんだからな」
はぐらかすような返事。
どうやら、今のところ竜尊の一方的な片想いに過ぎないらしい。
もしも想いが通じ合っているのなら、竜尊のことだ。
自慢げに、ここぞとばかりに、のろけまくるに違いないのだから。
そんな事情を察し、祢々斬は、さりげなく話題を変えた。
「時に、あのおん……いや、瑠璃は、どうして、そんなにまでして修行したがってるんだ?」
「…………それは……」
さらに沈痛な面持ちになって言い淀む竜尊。
これがあの……
女にはまったく不自由していないわりに、愛着も持たない
過去にどんな痛手を負ったのか、詳しくは知らないが
「女なんて、信用してないさ。食いたい時に食えれば、それでいい」
そんなふうに言い放っていた、あの男と同一人物なのか??
「……おまえは本当に竜尊か?」
「は?なんだと?」
鳩が豆鉄砲をくったような竜尊の表情に、祢々斬が吹き出した。
「まったく……おまえをそこまで虜にする瑠璃とかいう女に、一度、面と向かって会ってみたいもんだな」
「断る」
「はぁ?」
即座に断る竜尊に、今度は祢々斬がすっとんきょうな声を上げる番だった。
「俺以外の男の目に、あいつを触れさせるなんざ、許せん。あいつに他の男を会わせるのも、一切ごめんだ」
「……っははははっ」
堪えきれないように、祢々斬が笑い出した。
「何がおかしい!?」
ムッとした顔で竜尊が言い返す。
「いや……まいった。いいぜ、こうなったら、思う存分に気持ちを貫け。ここまでおまえが一途だとはなぁ……応援するしかないじゃないか」
腹を抱えて笑いながらも、竜尊の気持ちが本物であることに感嘆の念を抱く祢々斬だった。
*
二人の修行は、すっかり日課となった。
汗ばむくらいの陽気の中、ひとしきりの修行を終えると、心地よい疲労が二人を包む。
並んで地面に寝転ぶと、瑠璃はあくびをもらした。
「眠たくなっちゃった……ちょっと寝てもいいかな?」
「ああ、どうせ屋敷じゃぐっすり眠れなかったんだろ?なんなら、腕枕してやろうか」
嫌悪感たっぷりに背を向けられるかと思いきや、伸ばした腕に迷わず頭をあずけた瑠璃に、竜尊の方が仰天した。
嫌がるという選択肢もない程に、眠気が勝っていたらしい。
彼女は、すぐに深い眠りに落ちた。
「無理もねえ……毎日、これだけ厳しい修行をして疲れがたまった上に、眠れないんじゃな」
竜尊は、瑠璃の頬をそっとなでる。
今は、ぐっすり寝かせてやろう。
のどかな時間がどのくらい経っただろう。
風に一抹の冷たさが混じり出した頃、安心しきった様子だったはずの瑠璃が、うなされ始めた。
「瑠璃……?」
竜尊が彼女の様子を見ようと体を動かした途端
「お兄ちゃん!」
叫び声とともに、瑠璃がガバッと起き上がった。その顔は、今にも泣き出しそうだ。
「あれ……竜尊……私、何を……」
隣でゆっくりと体を起こした竜尊に気付き、懸命に記憶を辿っているようだ。
「おまえが会いたかった相手は……兄さんか?」
「人の夢を覗いたの!?」
「そんなことはしてないさ。今、おまえが叫んだんだろ?『お兄ちゃん』って」
「あ……そうだったんだ、ごめん……」
気持ちを落ち着かせようと深く息を吸う瑠璃に視線を落としながら、竜尊がつぶやく。
「道ならぬ恋……か」
「違うのっ」
慌てて声をあげてから、瑠璃は目を伏せた。
「違う……私が一方的に想ってるだけ。……お兄ちゃんには、素敵な恋人がいるんだ」
叶わぬ想いと知りつつ、愛しさを手放すことの出来ない、切なげな女の顔。
「ふっ……自分の気持ちを、否定はしないんだな。まったく……おまえにそんな顔をさせる奴がいるなんて、許せんな」
「え?私、変な顔してた?」
珍しく表情をくるくると変えて焦る瑠璃を、竜尊が抱きしめた。
「変なんかじゃない……恋する女の顔さ」
逃れようとジタバタされることを予想していたが、彼女は身動ぎもせずに腕の中に収まっていた。
「そんな顔を、俺のために見せてほしいもんだな」
「……どうして?」
「おまえを俺のものにしたいからだ」
思わずこぼれた言葉に、竜尊自身驚いた。
心の奥底の声、というやつだろうか。
ふと気付くと、いつの間にか顔を上げた瑠璃が竜尊の瞳をじっと見つめていた。
まるで、懐かしい者に注ぐような愛しげな眼差しで……。
彼女が見ている相手は、自分ではない。
それでも、今目の前にいる自分にだったら、こいつに触れることが出来る……
竜尊は、そっと彼女の頭を撫でた。
その瞬間、はっと我に返る瑠璃。
「竜尊……だよね」
「ああ、今おまえが体をあずけてるのは、間違いなく俺だな」
「なんで……」
瑠璃はうつむいたが、悲しさや後悔の念は感じられない。
むしろ……
「竜尊……あなたから、とってもあったかい気が流れてくるんだ」
「そうか?」
「うん……だから、安心して触れていられる」
瑠璃は、竜尊の胸にもたれかかった。
華奢な体を抱き止め背を優しくたたきながら、竜尊は思いを巡らせる。
瑠璃を心から慈しむ想い
――彼女の兄も、家族として抱いていたであろう情愛――
きっとそれが、暖かな空気となって彼女に伝わっているのだろう。
俺の想いは、単なる家族愛なんかじゃないがな――
竜尊は、瑠璃の顔を両手で包み上を向かせると、そっと唇を重ねた。
「っ!!……んん……!?」
驚いて体を離そうと試みた瑠璃だったが、竜尊の力にはかなわない。
長い口づけを、おとなしく受け入れるほかなかった。
ようやく唇を離した竜尊を、瑠璃が涙目で見上げる。
抗議したいのに、言葉がうまく見つからないといった様子だ。
そんな彼女と瞳を合わせると、竜尊はポツリとつぶやく。
「俺はおまえに惚れちまった」
「惚れ……ええぇっ!?」
「おまえが、俺と同じ気持ちになるように、まじないをかけた」
「同じ……気持ち……?」
「ああ。俺は、おまえがほしい。体も心もだ。おまえも俺に、同じ想いを抱くようにっていう、まじないさ」
再びそっと口づけられ、真っ赤な瑠璃の顔が、さらに赤くなる。
「わ……わた……し、もう、帰るね」
いつもの彼女らしからぬ機敏さでスクッと立ち上がると、瑠璃は一目散に駆け出した。
脱兎のごとく走り去って行く彼女を見送りながら、竜尊は小さな笑みをもらした。
*
瑠璃の背中がすっかり見えなくなり、竜尊は祠に向かって踵を返した。
ふと顔を上げると、小屋の入り口で腕組みをして立っている祢々斬の姿が目に入った。
「よぉ、祢々斬。いつからそこにいた?」
「あの女が立ち上がる、ちょっと前からだ」
「……見てたのか?」
「覗き見してたわけじゃない、たまたま見えちまっただけだ。悪く思うな」
祢々斬が、腕組みを解き竜尊に歩み寄る。
「なあ、竜尊。近頃ずいぶんご機嫌なようだが……あの女が原因か?」
「当たらずとも遠からずってとこだな……それより、今日は時間あるんだろ?付き合えよ、うまい酒がある」
「ああ、元よりそのつもりだ」
小屋に入り、差し向かいで腰を下ろす。
手にした盃には口をつけず、祢々斬はまっすぐに竜尊を見た。
「単刀直入に聞こう。竜尊、おまえ、どういうつもりであの女と会っている?」
「…………まあ、飲めよ」
問いには答えずそう促すと、竜尊は盃になみなみと注いだ酒をグイッと飲み干した。
祢々斬も、それにならう。
二人分の空になった盃を再び酒で満たすと、しばしその水面を眺めていた竜尊が、口を開いた。
「あいつの傍らにいることが心地いい……例えるなら、清浄な空気の中に身を置くような感覚だな」
「はぁ?なんだそりゃ」
大きくため息を吐きながら、祢々斬が、まだ酒の残る盃を置いた。ゆっくりと顔を上げると、紅く燃える瞳で竜尊を見据える。
「色恋沙汰なら、勝手にやってくれ。俺の知ったことじゃない。だがな……」
笑みをたたえながらも鋭い視線を返す竜尊に、さらに語りかける。
「だが、忘れるな。あの女は人間で、俺らは鬼だ。お互いはじめから、決して交わることのない道を歩いてるんだ」
「ふっ……そんなことは百も承知だ」
「報われないのを承知の上で、それでもなお、想いを募らせている……そういうことか?」
「なんとでも思うがいいさ。俺とて、千代に栄えし鬼としての誇りくらいは持っている」
二人の真剣な眼差しがぶつかる。
にらみ合いの末、先にあきらめの混じった笑顔を見せたのは、祢々斬だった。
「ならば、これ以上俺が何を言っても無駄だな」
彼は、残りの酒を一気にあおると、空の盃を竜尊の前に差し出した。
「ほれ、客の盃が空いてるぞ、注げ」
「おまえ……何をえらそうに……」
「おまえが言うだけあって、確かにうまい酒だ。どこで手に入れた?まさか、あの女からの貢ぎ物なんて言わないだろうな?」
「はは、その『まさか』だ。だが、貢ぎ物とは人聞きが悪いな。修行を指導する報酬にと、自分の小遣いを貯めて買ってきたんだそうだ」
「おいおい、あの女は敵なんじゃないのか?そんなに信用して大丈夫か?」
眉をひそめる祢々斬に、竜尊は静かに微笑んでみせた。
「修行の時の瑠璃は、俺に全幅の信頼を寄せている。そして……俺はあいつを信じてる」
手にした盃を目の高さまで上げ、じっと眺めると、竜尊は言葉を続ける。
「一時の感情で、周りが見えなくなってる訳じゃない。たとえ、この酒に毒が盛られていたとしても……あいつの手にかかって死ぬのなら、それも悪くはない。そう思えるのさ」
「それを盲目の愛っていうんじゃないのか?」
呆れ顔の祢々斬に、竜尊が返す。
「年頃の娘が、簪(かんざし)やら綺麗な着物やらの店は素通りして、酒屋で俺のために頭を悩ませてくれたんだぜ?なかなか嬉しい光景じゃないか」
本当に嬉しそうに話す竜尊に、祢々斬は、自分の憂慮が馬鹿馬鹿しくさえ思えてきた。
「竜尊……おまえがあの女に、どれだけ惚れちまったかってのは、よくわかった」
決して結ばれることのない愛をあきらめさせるつもりで出向いてきた祢々斬だったが、竜尊の気持ちが動かないことを見てとり、納得せざるを得なかった。
「だが……」
祢々斬は、居住まいを正した。
「おまえの気持ちは充分過ぎるほどにわかった。だが、向こうの……肝腎な、あの女の気持ちはどうなんだ?」
一瞬、竜尊が固まった。
彼は、深いため息をつきながら眉間にしわを寄せた。
「あの女あの女、言うなよ。あいつにはちゃんと、瑠璃って名前があるんだからな」
はぐらかすような返事。
どうやら、今のところ竜尊の一方的な片想いに過ぎないらしい。
もしも想いが通じ合っているのなら、竜尊のことだ。
自慢げに、ここぞとばかりに、のろけまくるに違いないのだから。
そんな事情を察し、祢々斬は、さりげなく話題を変えた。
「時に、あのおん……いや、瑠璃は、どうして、そんなにまでして修行したがってるんだ?」
「…………それは……」
さらに沈痛な面持ちになって言い淀む竜尊。
これがあの……
女にはまったく不自由していないわりに、愛着も持たない
過去にどんな痛手を負ったのか、詳しくは知らないが
「女なんて、信用してないさ。食いたい時に食えれば、それでいい」
そんなふうに言い放っていた、あの男と同一人物なのか??
「……おまえは本当に竜尊か?」
「は?なんだと?」
鳩が豆鉄砲をくったような竜尊の表情に、祢々斬が吹き出した。
「まったく……おまえをそこまで虜にする瑠璃とかいう女に、一度、面と向かって会ってみたいもんだな」
「断る」
「はぁ?」
即座に断る竜尊に、今度は祢々斬がすっとんきょうな声を上げる番だった。
「俺以外の男の目に、あいつを触れさせるなんざ、許せん。あいつに他の男を会わせるのも、一切ごめんだ」
「……っははははっ」
堪えきれないように、祢々斬が笑い出した。
「何がおかしい!?」
ムッとした顔で竜尊が言い返す。
「いや……まいった。いいぜ、こうなったら、思う存分に気持ちを貫け。ここまでおまえが一途だとはなぁ……応援するしかないじゃないか」
腹を抱えて笑いながらも、竜尊の気持ちが本物であることに感嘆の念を抱く祢々斬だった。
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