冬空にぬくもりを

祢々斬編:約束なんていらない

晴れ渡った寒い冬の日。
祢々斬は一人、紅玉の丘に寝転んで空を見上げていた。

『今頃、あいつもこの空を見上げているんだろうか』

とりとめのない思考が、いつも瑠璃に帰結しまっている自分に気付いて、祢々斬は苦笑した。

『いつの間に――』

彼は、深いため息をついた。

『いつの間に、あいつの存在が俺の日常にとって、こんなに大きなものになっちまっていたんだろう――――』

日々の修行の合間を縫って、あいつはここにやって来る。

『今日は風が気持ちいいから』だの、
『修行がうまくいって嬉しかったから』だの、
よくわからない理由をつぶやきながら、俺を訪ねてくる。

いや、正確には、この丘にいること自体が好きなのかもしれない。
ある時、姿を隠して見ていたら、あいつは俺のいない丘で、一人寝転んで空を見ていたからな。

そう、ちょうど今の俺のように――――




三日前。

あの日も瑠璃は丘に来て、いつもより距離を縮めて、祢々斬の隣に腰を下ろしていた。

「明日から、月讀さんのお手伝いで遠くの町まで行くの」

「そうか」

「しばらくここに来られないんだ……ごめんね」

「別に……謝ることでもないだろ」

「もう、冷たいんだから……」

ちょっぴり頬をふくらませて拗ねてみせる瑠璃の横顔をちらっと見ながら、祢々斬は思う。

会いたい気持ち、一緒にいたいという想いを、いつもこの女は隠さない。
真っ直ぐに、俺の瞳を見据えてくる。

それは、敵同士であった時から変わらない。
死と隣り合わせだったはずのあの頃にも、迷いなく敵である俺の目の前に立ち、そして微笑んでいた。

そして共存できるようになった今、相変わらずこいつは、幸せそうな笑顔で俺を見る。

何となく受け流してはいるが、俺は一体……
俺は、こいつにどんな気持ちを抱いているんだ?――


「…………ぎり」

「!?……あ?」

「ふふ、どうかしたの?珍しいね、祢々斬がぼーっとしてるなんて」

祢々斬と目が合うと、瑠璃はにっこりと微笑んだ。

「そろそろ帰らなくっちゃ」と立ち上がり、衣服についた草を払い落とす仕草をする。


『三日離れるくらい、どうってことはない。なのに、一抹の寂しさを感じる俺は……』

祢々斬は、心の声を押さえ付けながら
「道中、気を付けろよ」
そう言うのが精一杯だった。

「ありがとう。祢々斬も気を付けてね」

「何に気を付けるんだ?」

「ん~……風邪ひかないように、とか?」

春風のような微笑みを残し、瑠璃は小さく手を振って、屋敷へと戻って行った。





そして、今日。

この時間まで現れなかったということは、まだ帰っていないか、既に戻っているとしても、疲れを癒しているのに違いない。

『まあいい。明日には会えるはずだ』

まるで、彼女に会えることを心待ちにしているような自分を認め、祢々斬はふっと笑いをもらした。


「…………!?」

風に乗って、こちらに向かって来る足音が聞こえたような気がした。

『まさか、会いたさのあまりに空耳まで聞こえるようになったか?』

祢々斬は、苦い笑いを噛み殺した。

だがそのうち、空耳だと思った足音が、確かなものとして聞こえ出す。

足音の主は……

今ここにあるはずのない姿を視界に認め、祢々斬は弾かれたように立ち上がる。
息を切らせてやって来る瑠璃に駆け寄った祢々斬は、思わず彼女の両肩を強く掴んだ。

「馬鹿!あっという間に日が暮れるんだぞ?どうしてこんな時間に来たんだ!」

「…………」

ビクッと息を飲んだ瑠璃は、返す言葉もなく、俯き唇をかんだ。
小さな肩から、懸命に駆けてきた体の熱が、祢々斬の手に伝わる。


「……会いたかったんだもん……」

ようやく、消え入りそうな声で言葉を紡ぐ瑠璃。

「ちょっとでも早く、祢々斬に会いたかったんだもん」
怒んないでよ……とつぶやいた彼女の目から、涙がポトリと落ちた。

祢々斬は、大きく息を吐くと、彼女をギュッと抱きしめた。

「悪い……八つ当たりだ。三日お前に会えなかっただけで、心の中に穴があいたみたいになっちまってな」

「…………」

瑠璃は両腕を祢々斬の背中に回すと、顔を彼の胸に押し付け、子供のようにしっかりとしがみつく。


少しだけ話をするか、と、二人寄り添って丘に座る。

「一時だって早く会いたかったのは、俺だって同じだ。けど、今お前に触れちまったら……帰したくなくなるだろうが」

「やっぱり……帰らなくちゃいけないよね…」

まだ、互いに想いを伝えてはいないから、表向きはただの知り合い。それも、過去に敵同士であった……。

けれど既に二人の心は、自分達も気付かぬうちに、しっかり通じ合っていた。
肩を寄せる二人は、互いをいとおしむ恋人そのものだった。

「当たり前だ!あんまり変なこと口にすると、術士に大目玉食うんじゃないのか?」

「そうだよね……」

笑いながらたしなめる祢々斬に、瑠璃は大きくため息をこぼす。
そんな彼女の頭をクシャクシャと撫でながら、祢々斬が真面目な顔になる。

「術士と言えば……俺の目が届かない所に、おまえがあいつと一緒に出かけたってのは気に食わねえけどな」

「あはは、月讀さんは家族みたいなものだよ。祢々斬ってば、そのうち、私のお父さんとかお兄ちゃんにも焼きもち焼いたりして」

言ってから、ふと寂しそうに瞳を陰らせた彼女に、祢々斬が言う。

「俺が、おまえの父親になってやる。兄貴にもなってやる。……だから、そんな寂しそうな顔をするな」

「祢々斬……」



二人を包む空気が冷たさを増し、辺りは急に夜の色をまとい始めた。

「さあ、屋敷まで送ってやるから、今日はもう帰れ」

名残惜しそうに祢々斬がささやくと、瑠璃は、彼に体を預けながらコクンと頷く。

「よし、いい子だ……ん?」

もたれかかってきた重さに腕の中を覗き込むと、彼女は、安心しきった様子で静かな寝息をたてていた。

「ったく……こんなに疲れきってんのに、ここまで走ってきたのか」

横抱きに抱き上げたが、瑠璃は目を覚ます気配がない。
初めて目にする無防備な寝顔は、口元に微かな笑みを浮かべている。
つられて微笑むと、祢々斬は前を向き、月讀の屋敷を目指して歩き出した。


屋敷の玄関に祢々斬が立ったのとほぼ同時に、久遠が飛び出してきた。

「なんじゃ、祢々斬か。驚かすでない……っと、瑠璃!?おぬしが抱えておるのは瑠璃ではないか!?」

帰りの遅い彼女を心配して様子を見に出てきたという久遠が、瑠璃の顔を覗き込む。

「人に心配をかけておきながら、幸せそうな顔をしおって……」

「おい子狐、こいつをちゃんと休ませてやりたいんだが」

「おぉ、そうじゃな。こちらに来るのじゃ」

久遠に促され、祢々斬は屋敷に上がって廊下を進んだ。


瑠璃の部屋で久遠が布団を敷くのを眺めていると、月讀が顔を出した。

「祢々斬、あなたに渡したいものがあるのです。瑠璃さんを布団に寝かせたら、どうぞ居間に」

「渡したいもの?」

訝しげに眉をひそめた祢々斬だが、瑠璃を寝かせて布団を整えてやると、その髪をなでた後、素直に居間に向かった。



襖を開けると、向こうを向いて正座していた月讀が、振り向きざま畳の上に一升瓶をドンッと置いた。

「瑠璃さんから、あなたへの土産です。短くはない道のり、彼女はこの重たい瓶を、それは大事に抱えて来たのですよ」

思いがけない土産に、一瞬言葉に詰まった祢々斬だったが、顔をほころばせて呟いた。

「ふっ……あいつらしいな」

「まったくですね。軽い別のものにしたらどうかと勧めたのですが、絶対これがいい、と譲らなかったのです」

困ったような顔で、しかし嬉しそうに月讀が笑う。

「……この酒を飲む時には、あいつを借りるぜ」

月讀の正面に腰を下ろし、酒の瓶を自分の手元に引き寄せて、祢々斬が言う。

「おや。一人手酌で飲むのは、お気に召しませんか?」

「好きな女からの贈り物だ。あいつと二人で飲んだ方が、きっと何倍もうまいからな」

「好きな……?やはり、あなた方は……」

「まだ、約束を交わしたわけじゃねえ。今、俺が決めたんだ。あいつを、俺のものにする……ってな」

月讀は、肩を落として大きなため息をついた。

「娘を嫁に出す父親の気分ですよ」

「嫁……か。あいつが世界を変えてくれるまでは、まさか俺がこんな感情を抱くようになるなんて、夢にも思わなかったな」

「争いを好まない彼女だったからこそ、世界はこのような形に落ち着いたのでしょう」

「本当は俺らを滅ぼすつもりだったんだろ?」

皮肉をこめた祢々斬の言葉に、月讀は肩をすくめた。

「昔の話です。異界から招いたのが瑠璃さんで良かったと、今では心から思っていますよ」

まあいい……微かな笑いとともに祢々斬がつぶやく。

「大切なのは、過去よりも今、それから未来だ。あいつが命がけで造り出したこの世界……今度は、俺が命がけで、あいつを幸せにしてやる」

「祢々斬……瑠璃さんを、よろしく頼みますよ」



「何を二人で勝手な話をしておるのじゃ!?瑠璃は、ずっとこの屋敷におるのじゃ!わしのそばにおるのじゃ~!!」

瑠璃が落ち着いたのを見届けて部屋を出てきた久遠が、二人の間に割って入る。

思わず顔を見合わせてから、月讀も祢々斬も笑顔で久遠に言う。

「久遠、大丈夫ですよ。何も今すぐ瑠璃さんが嫁いでしまう訳ではないのですから」

「子狐、この屋敷に住んでいてもな、あいつは俺のものなんだよ」

「ぬぅ~、祢々斬……」

悔しがる久遠の頭をクシャクシャと撫で、祢々斬が声をたてて笑った。
その笑い声が届いたのか、ぐっすり眠る瑠璃が微かな笑みを浮かべた。



春の気配を漂わせる月明かりの下、二人が酒を酌み交わす日は、そう遠くない未来のお話――――

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