Solitaire〜第二夜〜
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七月も半ば過ぎの金曜日。
千鶴は、いつもより一本早い電車に揺られながら、窓の外に流れる景色をぼんやり眺めていた。
これなら、プラネタリウムの受付開始と同時に到着できるはずで、まだ原田を取り囲む女たちも、そう多くはないだろう。
――ひと言くらい……何かほんの少しでも、会話がしたい。
会報の感想だって伝えたいし、井上さんのプラネタリウムの話も聞きたいし――
はやる気持ちを落ち着かせようと深呼吸しているうち、エレベーターは最上階に到着した。
顔を上げると、プラネタリウム受付の向こう側に、人影がある。
高鳴る胸を抑えながら目を向ければ、天文雑誌を手に原田が壁にもたれて立っていた。
物憂げに視線を落としている、こんな表情の彼を見るのは初めてだ。
「……原田さん、こんばんは」
「うわ!!?」
恐る恐る近づいた千鶴に気づいた原田は、明らかに動揺していた。
手にしていた雑誌を取り落とし、慌ててそれを拾おうとしゃがみこむ。
中に挟んであったらしい数枚の写真が、落ちたそのままに裏返しで散らばっている。
自分に近い一枚を拾おうと千鶴が手を伸ばした途端、原田が叫んだ。
「触るなっ!」
ビクッとして動きを止めた千鶴は、うつむいて手を引っ込めた。
「すみません、出過ぎた真似をしました」
「いや……悪ぃ……大きな声出しちまって……」
無言で首を左右に振る千鶴は、目を上げようとしない。
「その……あれだ、へそくりが入ってたんでな、慌てちまった」
「はは」と笑う原田に合わせて、千鶴も微笑んでみせる。
だが、いつもの心からの笑顔でないことは、原田にも一目でわかった。
彼は、場を取り成すように口を開く。
「なんだ、その……千鶴……今日はやけに早いじゃねぇか」
「一本早い電車に乗れたものですから……」
その時背後から賑やかな声が聞こえ始めた。
「っと、もう開館の時間過ぎてんだな、悪ぃ……」
困ったような笑顔を浮かべ、『行くぞ』と目で促す原田に、千鶴は小さく首を振った。
「すみません、先に済ませなきゃならない用事があったの忘れてました。まだ時間ありますから、用を済ませてから、また来ます」
「そうか……じゃあ、また後でな」
結局、振り返らず下りのエレベーターに乗り込んだ千鶴が、このフロアに戻って来ることはなかった。
独りの部屋でベッドに寝ころぶ。
枕元に置いているプラネタリウムの会報を手にとろうとして、ため息とともにその手を引っ込めた。
「原田さん……か」
よく考えたら、名字しか知らない。
そう、しょせんはそれだけの関係。
最初から交わることのない世界の住人だったのだ。
ただ、自分が勘違いしていただけ。
星を愛する仲間だから、手を伸ばせば届く所にいる…って。
千鶴は自嘲の笑みを浮かべながら、力なく頭を振った。
――夏の星空なら、原田さんは赤く輝くアンタレス。
そして私は、地上から手を伸ばし見上げる、何の取り柄もないただの人間。
どう足掻いたって、触れることすら叶わない……
ううん、触れたいだなんて、過ぎた願いだってわかってる。わかってるけど……――――
翌週もその次も、気まずさが募り、仕事が終わるとまっすぐ帰宅した。
最後にプラネタリウムを訪れてから二回目、観てから三回目の金曜日。
寂しいながら、ちょっぴり諦めがついたような気もする。
――原田さんに笑顔を向けてもらった日々は、星が見せてくれた夢に違いない。
そろそろ、空ばかり見上げていないで、地に足をつけて生きろということだよね、きっと、これは…… ――――
千鶴は、ナイトプラネタリウムに通い出してから習慣となっていた金曜の夜のデパート行きを、きっぱりやめようと決意した。
*
星空とは無縁の生活にも慣れ始めた、八月。
仕事から帰った千鶴がポストを開けると、一通のダイレクトメールが届いていた。
“薄桜百貨店・ナイトプラネタリウム”の文字がプリントされた浅葱色の封筒を手にすれば、胸がズキンと疼く。
迷った末、封を開けると、今月の会報と一緒に、折り畳まれた白い紙が出てきた。
その手紙を、丁寧に広げてみる。
『今度のナイトプラネタリウムには、絶対来るように。
ペルセウス座流星群を観に行くからな。
投影が終わったら、駅北口のロータリーで待っててくれ。原田』
レポート用紙に綴られた角ばった文字。
案外几帳面な人なのかも……
それにしても、『来るように』なんて、まるで先生みたい……
思わずクスリと笑みをこぼしてから、千鶴はそれらの文字を読み返す。
参加者は絶対にたくさんいるはずで、黄色い声の飛び交う観測会になるであろうことは、想像に難くない。
けれど、プラネタリウム主催の会であれば、たくさんの流れ星が見える、天体観測には最適な場所に連れて行ってもらえるに違いない。
「それは捨てがたいよね……」
正直、流星群は観たいが自分一人で出かける勇気はない。
それに――
後ろめたさを感じる自分自身への言い訳かもしれないが、もしまたプラネタリウムを訪れるとするならば、きっと、これが最後のチャンスだろう。
何より、先日『後で戻る』と言っておきながら、それをすっぽかしたのは自分なのだ。
それなのに、こうやって手書きのメッセージまで同封してくれた原田の優しさが、縮こまっていた千鶴の心を、あたたかな空気で満たしてくれた。
「行ってみようかな」
彼女がそうつぶやくのに、時間はかからなかった。
久しぶりにデパートを訪れた金曜日。
相変わらず原田は取り巻きに囲まれていたが、今日の千鶴には、逆にそれがありがたかった。
一ヶ月ぶりのプラネタリウムを堪能した後、軽い会釈で受付を通り過ぎて駅に向かう。
原田ファンクラブの面々を残してエレベーターに乗り込んだため、ロータリーに到着したのは、千鶴が一番乗りだった。
……
………………
……………………???
待てども、それらしき人の姿が一向に見当たらない。
皆、原田の仕事が終わるのを待っていて、彼と共に現れるのだろうか……
心細さにデパートを見上げ、先ほどまで自分がいたであろう辺りに目をこらす。
北口って、こっちだよね。
どうしよう……
あと五分待って、それで誰も来なかったら、帰ろうかな――
彼女が自分の爪先に視線を落としたその時
「千鶴!」
シルバーのシボレーカマロが停まり、左ハンドルの運転席から、原田が顔を覗かせている。
「原田さん!?」
駆け寄った千鶴は、「待たせちまったか?」と微笑む原田に、泣き出しそうな声で言った。
「すみません、私、他の方たちとはぐれちゃったみたいで……どなたもいらっしゃらないんです」
「は?」
狐につままれたような表情の原田に、千鶴はなおも訴える。
「ナイトプラネタリウムのイベントなんですよね?私、先週もその前も来なかったから、他にどなたがいらっしゃるのか、全然わからなくって……」
そこまで言ってから、はたと何かに思い当たったらしい千鶴が声をひそめた。
「もしかして……参加希望者、私だけですか?」
吹き出しそうになるのを堪えながら、原田が真面目な顔を作る。
「今日の観測会な、主催者は“俺”。上得意様限定の特別ご招待ってやつだ。ついでに言えば、星空愛好会として初の活動だな」
「は?」
今度は千鶴が狐につままれる番だった。
「まあ、乗った乗った。とにかく行くぞ。悪ぃ、後ろは荷物置き場になっちまってるから、助手席に座ってもらえるか?」
緊張の面持ちでシートベルトを締める千鶴に、原田が以前と変わらぬ笑顔を向けた。
「まずは、軽く腹ごしらえでもするか」
*
「最近よく行く定食屋があるんだが、そこでいいか?」
「はい、実はおなかペコペコなんです」
ぎこちなくならないようにと気を遣っているのであろう、つとめて明るい声を出す千鶴に、原田は満足そうに微笑む。
「今から行く所はな、源さんに教えてもらった店なんだ」
「そうなんですか!……井上さん、お元気でしょうか」
「そりゃもう毎日生き生きと、仕事が楽しくて仕方ないんじゃないか?ちょっと前に、向こうの写真を送ってくれたから、店に入ったら見るか?」
「はい!」
信号待ちの間に原田がつけたラジオから、澄んだ歌声を乗せたバラードが流れ出す。
「この曲、素敵ですね」
「ああ、最近始まったドラマの挿入歌に使われてるな。カーペンターズのソリテアー……ひとり遊び……か。確か、寂しい男の歌、だったと思うぜ」
「でも、胸にしみる切なくてきれいなメロディと歌声ですね」
一旦言葉を切ってから、再び千鶴が口を開いた。
「ひとり遊び……きっと本当は、一人でいたい訳じゃなくて……でも、それが叶わないから平気な振りをしてるんでしょうね」
「俺だったら、自分の気持ちを偽ってひとり遊びするなんざ、性に合わねぇな」
独り言のような原田のつぶやきに、千鶴は感心したように返す。
「原田さんらしいと思います。気持ちを偽らない強さっていうんでしょうか?それって、誰にでも持てるものではありませんよね」
一瞬目を見開いてから、原田は言葉を選ぶように言った。
「強けりゃいいんだがな……思うとおりにならなくて、情けなく足掻いちまうことが多いな、今の俺は」
「そんなふうには見えないですけど……でも、人間ですからね。弱い部分や情けない部分があっても、ちっともおかしくなんかないと思います」
特に気負いもせず、さらりと紡がれる千鶴の言葉に、原田は思う。
――他の女には絶対弱味なんかみせないこの俺が、千鶴には、情けない自分を語っちまうなんてな――
話題を変えるかのように、千鶴が続ける。
「私、星を見るのって孤独な趣味かな、なんて思ってたんですけど、誰かと一緒に見る星空もきっと、いいものなんでしょうね」
「……好きな相手と見るなら、なおさらだな」
「はい、そう思います」
そのまま再び、先ほどまでと変わらぬ表情でフロントガラスの先に目をやる千鶴に、原田は苦笑いを浮かべる。
「…………なあ、もういっぺん言ってくれねぇか?」
「え?あ……はい、一人じゃなく誰かと見る星空は、素敵だろうなって思ったんです」
「その誰かってのは……おまえの好きな相手って解釈していいのか?」
一瞬頭にはてなマークを浮かべた千鶴が、突然叫び声を上げた。
「あー!?す、すみません、私ってば……何だか変なこと言いました……よね?」
「いや、そんなことはないと思うぜ」
慌てる千鶴をよそに車は順調に進み、程なく『めし処しまだ』という看板が掲げられた駐車場で停まった。
「着いたぞ」
引戸を開いて暖簾をくぐり、店内に足を踏み入れる。
「原田さん、いらっしゃい、お待ちしてました」
「遅がけに悪かったな。けど、よかった、今日はどうしても島田さんとこで食べたかったんでな」
夕食にはちょっぴり遅めの時間、どうやら原田は、前もって電話しておいたらしい。
こういう気配りも、原田さんらしいよね……
千鶴は原田の背中を見ながらそう感じていた。
厨房に面したカウンター席の背後に、通路を挟んで仕切りのない座敷がある。
厨房とは互いの様子がよく見えるし、大きな声を出せば会話もできるが、適度な距離があるため、気兼ねせずに自分たちの話をすることができる。
二人を座敷に案内してから、島田は暖簾を仕舞い始めた。
気付いた原田が、島田に声をかける。
「もしかして、もう仕舞いのとこ無理を言っちまったか?」
「いえ、先ほど予約の団体さんがお帰りになって、女房も先にあがりましたので、今日はもう原田さんの貸し切りってことにしようと思いまして」
「なんだか悪ぃな」
「とんでもない、俺は仕込みをさせてもらいますので、どうぞごゆっくりなさって下さい」
「んじゃ、お言葉に甘えさせてもらうとするか」
原田の言葉に笑顔でうなずく千鶴を見て、島田は微笑ましさを覚えるのだった。
・・・第三夜に続く
*
千鶴は、いつもより一本早い電車に揺られながら、窓の外に流れる景色をぼんやり眺めていた。
これなら、プラネタリウムの受付開始と同時に到着できるはずで、まだ原田を取り囲む女たちも、そう多くはないだろう。
――ひと言くらい……何かほんの少しでも、会話がしたい。
会報の感想だって伝えたいし、井上さんのプラネタリウムの話も聞きたいし――
はやる気持ちを落ち着かせようと深呼吸しているうち、エレベーターは最上階に到着した。
顔を上げると、プラネタリウム受付の向こう側に、人影がある。
高鳴る胸を抑えながら目を向ければ、天文雑誌を手に原田が壁にもたれて立っていた。
物憂げに視線を落としている、こんな表情の彼を見るのは初めてだ。
「……原田さん、こんばんは」
「うわ!!?」
恐る恐る近づいた千鶴に気づいた原田は、明らかに動揺していた。
手にしていた雑誌を取り落とし、慌ててそれを拾おうとしゃがみこむ。
中に挟んであったらしい数枚の写真が、落ちたそのままに裏返しで散らばっている。
自分に近い一枚を拾おうと千鶴が手を伸ばした途端、原田が叫んだ。
「触るなっ!」
ビクッとして動きを止めた千鶴は、うつむいて手を引っ込めた。
「すみません、出過ぎた真似をしました」
「いや……悪ぃ……大きな声出しちまって……」
無言で首を左右に振る千鶴は、目を上げようとしない。
「その……あれだ、へそくりが入ってたんでな、慌てちまった」
「はは」と笑う原田に合わせて、千鶴も微笑んでみせる。
だが、いつもの心からの笑顔でないことは、原田にも一目でわかった。
彼は、場を取り成すように口を開く。
「なんだ、その……千鶴……今日はやけに早いじゃねぇか」
「一本早い電車に乗れたものですから……」
その時背後から賑やかな声が聞こえ始めた。
「っと、もう開館の時間過ぎてんだな、悪ぃ……」
困ったような笑顔を浮かべ、『行くぞ』と目で促す原田に、千鶴は小さく首を振った。
「すみません、先に済ませなきゃならない用事があったの忘れてました。まだ時間ありますから、用を済ませてから、また来ます」
「そうか……じゃあ、また後でな」
結局、振り返らず下りのエレベーターに乗り込んだ千鶴が、このフロアに戻って来ることはなかった。
独りの部屋でベッドに寝ころぶ。
枕元に置いているプラネタリウムの会報を手にとろうとして、ため息とともにその手を引っ込めた。
「原田さん……か」
よく考えたら、名字しか知らない。
そう、しょせんはそれだけの関係。
最初から交わることのない世界の住人だったのだ。
ただ、自分が勘違いしていただけ。
星を愛する仲間だから、手を伸ばせば届く所にいる…って。
千鶴は自嘲の笑みを浮かべながら、力なく頭を振った。
――夏の星空なら、原田さんは赤く輝くアンタレス。
そして私は、地上から手を伸ばし見上げる、何の取り柄もないただの人間。
どう足掻いたって、触れることすら叶わない……
ううん、触れたいだなんて、過ぎた願いだってわかってる。わかってるけど……――――
翌週もその次も、気まずさが募り、仕事が終わるとまっすぐ帰宅した。
最後にプラネタリウムを訪れてから二回目、観てから三回目の金曜日。
寂しいながら、ちょっぴり諦めがついたような気もする。
――原田さんに笑顔を向けてもらった日々は、星が見せてくれた夢に違いない。
そろそろ、空ばかり見上げていないで、地に足をつけて生きろということだよね、きっと、これは…… ――――
千鶴は、ナイトプラネタリウムに通い出してから習慣となっていた金曜の夜のデパート行きを、きっぱりやめようと決意した。
*
星空とは無縁の生活にも慣れ始めた、八月。
仕事から帰った千鶴がポストを開けると、一通のダイレクトメールが届いていた。
“薄桜百貨店・ナイトプラネタリウム”の文字がプリントされた浅葱色の封筒を手にすれば、胸がズキンと疼く。
迷った末、封を開けると、今月の会報と一緒に、折り畳まれた白い紙が出てきた。
その手紙を、丁寧に広げてみる。
『今度のナイトプラネタリウムには、絶対来るように。
ペルセウス座流星群を観に行くからな。
投影が終わったら、駅北口のロータリーで待っててくれ。原田』
レポート用紙に綴られた角ばった文字。
案外几帳面な人なのかも……
それにしても、『来るように』なんて、まるで先生みたい……
思わずクスリと笑みをこぼしてから、千鶴はそれらの文字を読み返す。
参加者は絶対にたくさんいるはずで、黄色い声の飛び交う観測会になるであろうことは、想像に難くない。
けれど、プラネタリウム主催の会であれば、たくさんの流れ星が見える、天体観測には最適な場所に連れて行ってもらえるに違いない。
「それは捨てがたいよね……」
正直、流星群は観たいが自分一人で出かける勇気はない。
それに――
後ろめたさを感じる自分自身への言い訳かもしれないが、もしまたプラネタリウムを訪れるとするならば、きっと、これが最後のチャンスだろう。
何より、先日『後で戻る』と言っておきながら、それをすっぽかしたのは自分なのだ。
それなのに、こうやって手書きのメッセージまで同封してくれた原田の優しさが、縮こまっていた千鶴の心を、あたたかな空気で満たしてくれた。
「行ってみようかな」
彼女がそうつぶやくのに、時間はかからなかった。
久しぶりにデパートを訪れた金曜日。
相変わらず原田は取り巻きに囲まれていたが、今日の千鶴には、逆にそれがありがたかった。
一ヶ月ぶりのプラネタリウムを堪能した後、軽い会釈で受付を通り過ぎて駅に向かう。
原田ファンクラブの面々を残してエレベーターに乗り込んだため、ロータリーに到着したのは、千鶴が一番乗りだった。
……
………………
……………………???
待てども、それらしき人の姿が一向に見当たらない。
皆、原田の仕事が終わるのを待っていて、彼と共に現れるのだろうか……
心細さにデパートを見上げ、先ほどまで自分がいたであろう辺りに目をこらす。
北口って、こっちだよね。
どうしよう……
あと五分待って、それで誰も来なかったら、帰ろうかな――
彼女が自分の爪先に視線を落としたその時
「千鶴!」
シルバーのシボレーカマロが停まり、左ハンドルの運転席から、原田が顔を覗かせている。
「原田さん!?」
駆け寄った千鶴は、「待たせちまったか?」と微笑む原田に、泣き出しそうな声で言った。
「すみません、私、他の方たちとはぐれちゃったみたいで……どなたもいらっしゃらないんです」
「は?」
狐につままれたような表情の原田に、千鶴はなおも訴える。
「ナイトプラネタリウムのイベントなんですよね?私、先週もその前も来なかったから、他にどなたがいらっしゃるのか、全然わからなくって……」
そこまで言ってから、はたと何かに思い当たったらしい千鶴が声をひそめた。
「もしかして……参加希望者、私だけですか?」
吹き出しそうになるのを堪えながら、原田が真面目な顔を作る。
「今日の観測会な、主催者は“俺”。上得意様限定の特別ご招待ってやつだ。ついでに言えば、星空愛好会として初の活動だな」
「は?」
今度は千鶴が狐につままれる番だった。
「まあ、乗った乗った。とにかく行くぞ。悪ぃ、後ろは荷物置き場になっちまってるから、助手席に座ってもらえるか?」
緊張の面持ちでシートベルトを締める千鶴に、原田が以前と変わらぬ笑顔を向けた。
「まずは、軽く腹ごしらえでもするか」
*
「最近よく行く定食屋があるんだが、そこでいいか?」
「はい、実はおなかペコペコなんです」
ぎこちなくならないようにと気を遣っているのであろう、つとめて明るい声を出す千鶴に、原田は満足そうに微笑む。
「今から行く所はな、源さんに教えてもらった店なんだ」
「そうなんですか!……井上さん、お元気でしょうか」
「そりゃもう毎日生き生きと、仕事が楽しくて仕方ないんじゃないか?ちょっと前に、向こうの写真を送ってくれたから、店に入ったら見るか?」
「はい!」
信号待ちの間に原田がつけたラジオから、澄んだ歌声を乗せたバラードが流れ出す。
「この曲、素敵ですね」
「ああ、最近始まったドラマの挿入歌に使われてるな。カーペンターズのソリテアー……ひとり遊び……か。確か、寂しい男の歌、だったと思うぜ」
「でも、胸にしみる切なくてきれいなメロディと歌声ですね」
一旦言葉を切ってから、再び千鶴が口を開いた。
「ひとり遊び……きっと本当は、一人でいたい訳じゃなくて……でも、それが叶わないから平気な振りをしてるんでしょうね」
「俺だったら、自分の気持ちを偽ってひとり遊びするなんざ、性に合わねぇな」
独り言のような原田のつぶやきに、千鶴は感心したように返す。
「原田さんらしいと思います。気持ちを偽らない強さっていうんでしょうか?それって、誰にでも持てるものではありませんよね」
一瞬目を見開いてから、原田は言葉を選ぶように言った。
「強けりゃいいんだがな……思うとおりにならなくて、情けなく足掻いちまうことが多いな、今の俺は」
「そんなふうには見えないですけど……でも、人間ですからね。弱い部分や情けない部分があっても、ちっともおかしくなんかないと思います」
特に気負いもせず、さらりと紡がれる千鶴の言葉に、原田は思う。
――他の女には絶対弱味なんかみせないこの俺が、千鶴には、情けない自分を語っちまうなんてな――
話題を変えるかのように、千鶴が続ける。
「私、星を見るのって孤独な趣味かな、なんて思ってたんですけど、誰かと一緒に見る星空もきっと、いいものなんでしょうね」
「……好きな相手と見るなら、なおさらだな」
「はい、そう思います」
そのまま再び、先ほどまでと変わらぬ表情でフロントガラスの先に目をやる千鶴に、原田は苦笑いを浮かべる。
「…………なあ、もういっぺん言ってくれねぇか?」
「え?あ……はい、一人じゃなく誰かと見る星空は、素敵だろうなって思ったんです」
「その誰かってのは……おまえの好きな相手って解釈していいのか?」
一瞬頭にはてなマークを浮かべた千鶴が、突然叫び声を上げた。
「あー!?す、すみません、私ってば……何だか変なこと言いました……よね?」
「いや、そんなことはないと思うぜ」
慌てる千鶴をよそに車は順調に進み、程なく『めし処しまだ』という看板が掲げられた駐車場で停まった。
「着いたぞ」
引戸を開いて暖簾をくぐり、店内に足を踏み入れる。
「原田さん、いらっしゃい、お待ちしてました」
「遅がけに悪かったな。けど、よかった、今日はどうしても島田さんとこで食べたかったんでな」
夕食にはちょっぴり遅めの時間、どうやら原田は、前もって電話しておいたらしい。
こういう気配りも、原田さんらしいよね……
千鶴は原田の背中を見ながらそう感じていた。
厨房に面したカウンター席の背後に、通路を挟んで仕切りのない座敷がある。
厨房とは互いの様子がよく見えるし、大きな声を出せば会話もできるが、適度な距離があるため、気兼ねせずに自分たちの話をすることができる。
二人を座敷に案内してから、島田は暖簾を仕舞い始めた。
気付いた原田が、島田に声をかける。
「もしかして、もう仕舞いのとこ無理を言っちまったか?」
「いえ、先ほど予約の団体さんがお帰りになって、女房も先にあがりましたので、今日はもう原田さんの貸し切りってことにしようと思いまして」
「なんだか悪ぃな」
「とんでもない、俺は仕込みをさせてもらいますので、どうぞごゆっくりなさって下さい」
「んじゃ、お言葉に甘えさせてもらうとするか」
原田の言葉に笑顔でうなずく千鶴を見て、島田は微笑ましさを覚えるのだった。
・・・第三夜に続く
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