祭囃子に誘われて
祭囃子が鳴り響く秋の週末。
風に運ばれるその音色と喧騒は、万人の心を浮き立たせる。
「一さん、お祭りの音が賑やかですよ!ちょっと街まで見に行きませんか?」
斎藤は言葉につまった。
本心では「駄目だ」と即座に答えたい。
なんといっても、今の千鶴は“ひとり”ではない。
新しい命を宿している、大切な身なのだ。
心配性の斎藤としては、出来ることなら、可愛い妻には安全安心な我が家で胎教CDを子守歌に昼寝でもしていてほしいのだ。
だが、こんなにも瞳をキラキラさせている千鶴の希望を、叶えてやりたい、という気持ちがあるのも事実。
あちらを立てればこちらが立たず。
しばらく考え込んだ後、何かを振りきるように斎藤は言った。
「『犬も歩けば棒に当たる』という諺もある。わざわざ危険を冒して出かける必要はないと思うのだが」
斎藤の言葉に、千鶴は一瞬目を丸くしてから、ふんわりと笑った。
「ご心配ありがとうございます……でも、大丈夫ですよ。歩く犬、みんながみんな棒に当たっている訳ではありませんから」
「む……確かに、そうだが」
「それに……お祭りの太鼓や笛の音が聞こえると、血が騒ぎませんか?」
「……そういうものか?」
案外、千鶴はお祭り好きなのだな……
斎藤は、妙に感心した面持ちで、あごに手を当て再び考え込む。
結局、自分が片時も離れず側にいる、という条件つきで、斎藤は千鶴に祭りの見学を許可した。
「ただし、今からでは夕食のスケジュールに狂いが生じる。夕食後ならば、時間に余裕があるゆえ、出かけるのは夜にしよう」
「はいっ!」
今日の夕食は、斎藤が腕をふるうことになっていた。
食事の時間から逆算して綿密な計画を立てていた彼だが、少々その予定を繰り上げて、最高の食材であると信じる豆腐の料理をテキパキと作っていった。
「わあ、美味しいです!」
揚げ出し豆腐に豆腐サラダ、いり豆腐にみそ汁……
幸せそうに箸を運ぶ千鶴を眺めながら、斎藤は思いを巡らす。
何かにつけて心配が先に立ってしまう自分に、必ず千鶴は「大丈夫ですよ」と微笑む。
あの笑顔で「大丈夫」と言われれば、確かに大丈夫なのだという気がして、その度に自分は安堵の息をつく。
……なんだか、これでは……
本来ならば、夫である自分が、初めての妊娠で不安になっているであろう千鶴を安心させてやらねばならぬというのに……
振り返ってみれば、自分が千鶴に安心させてもらってばかりなのではないか。
「?どうかなさったんですか?」
手の止まった斎藤に、千鶴が首をかしげる。
「いや……何でもない。……千鶴は、祭りの露店で何かほしいものがあるのか?」
「やっぱり、お祭りといえば綿菓子です!」
「そうか」
「あ!……それだけが目的じゃないですけど……絢爛な屋台も見たいですし、お祭り特有の雰囲気というものもですね……」
慌てる千鶴に、斎藤は思わず吹き出した。
「わ……笑うことないじゃないですか」
「いやその……すまない」
顔を見合わせ、そろって吹き出す。
――ああ、俺は、何を悩んでいたんだ。
この笑顔があれば、他には何もいらないではないか。
心配になるのは愛しているからこそで、その思いを後ろ向きになどとらえる必要はない。
そう、これでよいのだ。――
早めの夕食を済ませた二人は、各町内の屋台が集まり練り歩く賑やかな市街に出かけた。
三味線の旋律、車輪の軋む音。
念願の綿菓子を大事そうに抱えて、子供のようにはしゃぐ千鶴に、斎藤は常にピタリと寄り添っている。
年に一度の祭りを堪能してから、二人は、ゆっくり帰途についた。
「虫の声がすごくきれいですね」
秋の虫たちの合唱に、千鶴が立ち止まって耳をすませた。
「秋の夜風は思いの外冷たいものだ。身体に障ってはいけない」
そう言いながら、斎藤は千鶴の肩を抱き寄せた。
その手の温もりにほんのり頬を染めて、千鶴はクスリと微笑んだ。
「ありがとうございます、でも、大丈夫ですよ」
「しかし……ここまで肌寒くなるとわかっていれば、羽織る物を準備してきたものを……」
いっそのこと俺の着ている物を、と言いかけた斎藤を「やめてください通報されます」と一刀両断し、千鶴は、彼の肩に頭をあずけた。
「こんなふうに季節を体中で感じられる機会なんて、そんなにないですから……もう少しだけこうしていさせてください」
賑やかな虫の音と遠くに聞こえるお囃子、ひんやり頬を撫でる夜風に、愛する人の体温……
しばしの後、斎藤が口を開いた。
「千鶴、綿菓子をふわりとした状態のまま食べるのであれば、今日のうちだ」
「あ、そうですね、時間が経つと、小さくて固いお砂糖みたいになってしまいますものね」
「胃腸に負担をかけぬよう、九時を回ったら食べぬこと……いいな?」
「わわっ、それじゃあ、急いで帰らなくちゃですね」
慌てて歩き出そうとした千鶴の体が、前のめりにグラリと揺れた。
「千鶴っ!」
小さな段差に足をとられ、つんのめった千鶴を、斎藤が抱き止めた。
「ごめんなさい、つまずいちゃいました」
眉を下げて申し訳なさそうにうつむく千鶴を優しく抱きしめ直し、斎藤は、ゆっくりと息を吐いた。
「……大事な体だ、もう少し落ち着いて行動すべきだと思うのだが」
「気をつけます……でも、きっと大丈夫ですよ」
「?」
「一さんが側にいてくださいますから、大丈夫です」
一瞬見開いた目を千鶴に向ければ、その眼差しに応えるように彼女はにっこりと微笑む。
斎藤もつられて、フッと笑みをもらした。
「では、急ぐぞ」
「はい!」
「ただし、安全第一でな」
綿菓子の袋をそっと抱きしめて、千鶴はうなずいた。
微かに聞こえる太鼓の音に送られて、寄り添う二つの影が家路をたどる。
ベビーカーを押してこの道を歩くであろう、来年の今日に思いを馳せながら。
*
風に運ばれるその音色と喧騒は、万人の心を浮き立たせる。
「一さん、お祭りの音が賑やかですよ!ちょっと街まで見に行きませんか?」
斎藤は言葉につまった。
本心では「駄目だ」と即座に答えたい。
なんといっても、今の千鶴は“ひとり”ではない。
新しい命を宿している、大切な身なのだ。
心配性の斎藤としては、出来ることなら、可愛い妻には安全安心な我が家で胎教CDを子守歌に昼寝でもしていてほしいのだ。
だが、こんなにも瞳をキラキラさせている千鶴の希望を、叶えてやりたい、という気持ちがあるのも事実。
あちらを立てればこちらが立たず。
しばらく考え込んだ後、何かを振りきるように斎藤は言った。
「『犬も歩けば棒に当たる』という諺もある。わざわざ危険を冒して出かける必要はないと思うのだが」
斎藤の言葉に、千鶴は一瞬目を丸くしてから、ふんわりと笑った。
「ご心配ありがとうございます……でも、大丈夫ですよ。歩く犬、みんながみんな棒に当たっている訳ではありませんから」
「む……確かに、そうだが」
「それに……お祭りの太鼓や笛の音が聞こえると、血が騒ぎませんか?」
「……そういうものか?」
案外、千鶴はお祭り好きなのだな……
斎藤は、妙に感心した面持ちで、あごに手を当て再び考え込む。
結局、自分が片時も離れず側にいる、という条件つきで、斎藤は千鶴に祭りの見学を許可した。
「ただし、今からでは夕食のスケジュールに狂いが生じる。夕食後ならば、時間に余裕があるゆえ、出かけるのは夜にしよう」
「はいっ!」
今日の夕食は、斎藤が腕をふるうことになっていた。
食事の時間から逆算して綿密な計画を立てていた彼だが、少々その予定を繰り上げて、最高の食材であると信じる豆腐の料理をテキパキと作っていった。
「わあ、美味しいです!」
揚げ出し豆腐に豆腐サラダ、いり豆腐にみそ汁……
幸せそうに箸を運ぶ千鶴を眺めながら、斎藤は思いを巡らす。
何かにつけて心配が先に立ってしまう自分に、必ず千鶴は「大丈夫ですよ」と微笑む。
あの笑顔で「大丈夫」と言われれば、確かに大丈夫なのだという気がして、その度に自分は安堵の息をつく。
……なんだか、これでは……
本来ならば、夫である自分が、初めての妊娠で不安になっているであろう千鶴を安心させてやらねばならぬというのに……
振り返ってみれば、自分が千鶴に安心させてもらってばかりなのではないか。
「?どうかなさったんですか?」
手の止まった斎藤に、千鶴が首をかしげる。
「いや……何でもない。……千鶴は、祭りの露店で何かほしいものがあるのか?」
「やっぱり、お祭りといえば綿菓子です!」
「そうか」
「あ!……それだけが目的じゃないですけど……絢爛な屋台も見たいですし、お祭り特有の雰囲気というものもですね……」
慌てる千鶴に、斎藤は思わず吹き出した。
「わ……笑うことないじゃないですか」
「いやその……すまない」
顔を見合わせ、そろって吹き出す。
――ああ、俺は、何を悩んでいたんだ。
この笑顔があれば、他には何もいらないではないか。
心配になるのは愛しているからこそで、その思いを後ろ向きになどとらえる必要はない。
そう、これでよいのだ。――
早めの夕食を済ませた二人は、各町内の屋台が集まり練り歩く賑やかな市街に出かけた。
三味線の旋律、車輪の軋む音。
念願の綿菓子を大事そうに抱えて、子供のようにはしゃぐ千鶴に、斎藤は常にピタリと寄り添っている。
年に一度の祭りを堪能してから、二人は、ゆっくり帰途についた。
「虫の声がすごくきれいですね」
秋の虫たちの合唱に、千鶴が立ち止まって耳をすませた。
「秋の夜風は思いの外冷たいものだ。身体に障ってはいけない」
そう言いながら、斎藤は千鶴の肩を抱き寄せた。
その手の温もりにほんのり頬を染めて、千鶴はクスリと微笑んだ。
「ありがとうございます、でも、大丈夫ですよ」
「しかし……ここまで肌寒くなるとわかっていれば、羽織る物を準備してきたものを……」
いっそのこと俺の着ている物を、と言いかけた斎藤を「やめてください通報されます」と一刀両断し、千鶴は、彼の肩に頭をあずけた。
「こんなふうに季節を体中で感じられる機会なんて、そんなにないですから……もう少しだけこうしていさせてください」
賑やかな虫の音と遠くに聞こえるお囃子、ひんやり頬を撫でる夜風に、愛する人の体温……
しばしの後、斎藤が口を開いた。
「千鶴、綿菓子をふわりとした状態のまま食べるのであれば、今日のうちだ」
「あ、そうですね、時間が経つと、小さくて固いお砂糖みたいになってしまいますものね」
「胃腸に負担をかけぬよう、九時を回ったら食べぬこと……いいな?」
「わわっ、それじゃあ、急いで帰らなくちゃですね」
慌てて歩き出そうとした千鶴の体が、前のめりにグラリと揺れた。
「千鶴っ!」
小さな段差に足をとられ、つんのめった千鶴を、斎藤が抱き止めた。
「ごめんなさい、つまずいちゃいました」
眉を下げて申し訳なさそうにうつむく千鶴を優しく抱きしめ直し、斎藤は、ゆっくりと息を吐いた。
「……大事な体だ、もう少し落ち着いて行動すべきだと思うのだが」
「気をつけます……でも、きっと大丈夫ですよ」
「?」
「一さんが側にいてくださいますから、大丈夫です」
一瞬見開いた目を千鶴に向ければ、その眼差しに応えるように彼女はにっこりと微笑む。
斎藤もつられて、フッと笑みをもらした。
「では、急ぐぞ」
「はい!」
「ただし、安全第一でな」
綿菓子の袋をそっと抱きしめて、千鶴はうなずいた。
微かに聞こえる太鼓の音に送られて、寄り添う二つの影が家路をたどる。
ベビーカーを押してこの道を歩くであろう、来年の今日に思いを馳せながら。
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