東雲の色
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朝の薄桜学園。
始業まではまだ間があるというのに、廊下を走り抜けていくひとつの影。
その足音は保健室の前で止まる。
部屋の中の山南が廊下に目をやった瞬間、ドアが勢いよく開いて千鶴が飛び込んできた。
「おや、雪村君。そんなに血相を変えてどうしたんですか?」
山南は事務机の前に立ち上がると、穏やかな笑みを彼女に向ける。
廊下を全力疾走してきたらしい千鶴は、乱れる息を整えようと胸を押さえていたが、キッと顔を上げると山南に駆け寄った。
「……先生!」
「なんでしょう?……わっ!」
顔を歪め目を潤ませていた千鶴は、山南の胸に飛び込むと、両腕を彼の背中に回してギュウと抱きついた。
そんな彼女の背を優しくなでながら、山南が問いかける。
「雪村君、何があったのですか?ゆっくりでいいですから、私に聞かせてくれませんか?」
千鶴は、いやいやをするように小さく首を左右に振る。
「さて、困りましたね。そろそろ山崎君も顔を出してくれる頃合いですし」
「すみません、俺ならここにいます」
そこには、ちょうど現れたらしい山崎が気まずそうに立っていた。
「取り込み中のようですから、俺はまた昼休みにでも出直してきます」
そう言ってくるっと向きを変えようとした山崎だったが、千鶴の声に立ち止まった。
「山崎先輩だって!……あんな夢を見たらっ……」
そこまで言うと、千鶴の目からは大粒の涙があふれ出した。
「ああ、辛く悲しい夢を見たのですね?」
再び山南にしがみついた千鶴は、しゃくりあげながら何度もうなずく。
「山南先生が……血だらけで、何度も何度も同じ夢を……だから、先生に何かあったんじゃないかって……」
「それは怖かったでしょう、心配かけましたね」
そうささやきながら千鶴の背中をさする山南に、壁掛けの丸時計をちらっと見上げて山崎が言う。
「俺はそろそろ教室に向かいます。雪村君をこのままここで休ませるのでしたら、原田先生に伝えておきますが」
「ああ、そうしていただけると助かります」
「では……」と歩き出した山崎が、何かを思い出したように足を止める。
「そうだ、雪村君」
「?……はい」
「悪い夢を見てしまった時には、獏に食べてもらえば大丈夫だと聞いたことがある。次からはそうしたらどうだ?」
「夢を食べる獏……そういえば聞いたことがあります」
微かにうなずき山崎は続ける。
「失念してしまったが、悪夢を消すためのまじないの言葉もあるらしい。もっとも、山南先生が側にいてくださるならば、悪い夢など見ないですむのかもしれないが」
山崎の言葉に被せるように予鈴が鳴り、彼は慌てて部屋を出ていった。
*
山崎の姿が扉の向こうに消え、保健室はシンと静かになる。
山南は、千鶴の肩に手を置いた。
小刻みに震えている小さい肩をそっと押して体を離すと、不安そうに見上げる彼女の頬を優しくなでる。
「ベッドで休むといい。なんなら子守歌でも歌いましょうか?」
山南の指で涙をぬぐわれた頬をほんのり染めて、千鶴は笑う。
「ふふ、子守歌ですか?」
「その様子では、よく眠れなかったのでしょう。子守歌がご不満でしたら、愛の歌にしておきますよ?」
おどけたような山南の口ぶりに、千鶴は再びクスリと笑ってから、はにかんだ様子で瞳を伏せた。
「歌もいいですけど……」
一瞬ためらった後、彼女は決心したように言った。
「そばにいてください。いえ…枕元じゃなくてもいいんです。目が覚めた時に、先生の姿が見えるように……」
「君は、案外甘えん坊なのですね」
からかうような山南の口調に軽く抗議の視線を向けてから、千鶴はブレザーを脱いだ。
ベッドに横たわる千鶴の傍らに、丸イスを運んできた山南が腰かける。
「雪村君、手を出してください」
「手……ですか?」
千鶴がおずおずと差し出した右手を、山南の両手が包み込む。
「つらく悲しい気持ちや出来事は、誰かに話すことでいくらか軽くなりますよ?」
「先生…………」
しばし迷う様子をみせてから、山南が非業の死を遂げる夢を見たのだ、と千鶴はポツポツ話し出す。
はっと目が覚めて『夢だった……』と安堵するも、再びうとうと微睡むと、目の前に現れるのは同じ光景。
目覚ましが鳴り、寝不足のまま起きて身支度をしつつも、夢のことが頭から離れない。
これはもう、不吉極まりない何かの予兆に違いない。
いや、もしかしたら、今この時、山南の身に何か恐ろしいことが起こっているのかもしれない。
そう思ったらいても立ってもいられず、一刻も早く山南の無事を確かめたくて走って来たのだと、彼女は時折言葉につまりながら説明した。
「私の身を案じて走ってきてくれたのですね……不謹慎かもしれませんが、嬉しいです」
千鶴は、ちょっぴり冷たい山南の手に、自分の左手を重ねた。
「先生、どこにも行かないで下さい。ずっとここに、手の届くところにいてください」
未だ夢に怯えているのか必死に訴える千鶴に、山南は優しく諭すように言う。
「知っていますか?夢の中での“死”は、現実の“死”とは意味合いが異なるのですよ」
「え、では、どんな」
「私が覚えているのは、『大きな変化を暗示している』とか、『逆夢だから実は幸運な夢だ』、といった内容です。ですから、君はこれっぽっちも不安に思わなくていいんですよ」
「よかった……!」
ホッと胸をなでおろす千鶴を、山南はいとおしそうに見つめる。
*
この学校に入学した千鶴が初めて保健室を訪れた時から、二人は互いにひかれていた。
まるで、想い合うことが定めであったかのように。
とはいうものの、ここは学校で、立場は教師と生徒。
好意を寄せ合っていることはわかっていながらも、今の彼らに出来るのは、昼休みや放課後の保健室で時間と空間を共有することくらいだ。
だから、こんなふうに二人きりの密な時を過ごすのは、実は初めてだった。
「不思議なものです……こうして君の手に触れるのは初めてなはずなのに、何故か懐かしい気がします」
「私もです」
千鶴は、山南の手を強く握って引き寄せる。
「懐かしいのに不安になります。夢のせいだけじゃなく……この手を離したら、いつか先生がいなくなってしまいそうで……」
「こんなに近くにいるのに、何が君をそんなに不安にさせるのでしょうね?」
重ねられた手をほどくと、山南は千鶴の髪をそっと撫でた。
「私は、いつだってここにいますよ、君のそばにね」
「はい…………でも」
千鶴は、毛布を引きあげて鼻の辺りまで被り目を伏せた。
「……きっと、私が先生のことを好きすぎて……でも、先生はいつか、もっと大人の女の人を好きになってしまうに違いないんです、だから……」
千鶴が口を閉ざすと、山南は深いため息をついた。
「馬鹿なことを……そういう心配をしなければならないのは、私の方ですよ?」
「?」
「君は、咲きはじめの可憐な花。いつか私のことなど、一時の気の迷いであったと打ち捨てる、そんな日が来てしまうのではありませんか?」
山南がそのように考えていたなど思いもよらず、千鶴は思わず目を見開いた。
何も言えない千鶴に、山南はにっこりと微笑みかける。
「さあ、ゆっくりとお休みなさい。私には、悪夢を違えたり禍々しいものを祓ったりする能力はありませんが、側にいることくらいは出来ます」
「そうしていただけることが……先生が側にいてくださることが、一番嬉しいです」
見つめ合い、どちらからともなく微笑む。
「雪村君?」
「はい」
「君は、夜が明けていく様を見たことはありますか?」
「いえ……先生はご覧になったことがあるんですか?」
「休日の前の晩など、夜更かししてそのまま徹夜してしまったりしますよ。それで、空の色が変わっていく様子を眺めるのが好きなんです」
「……私も見てみたい気がします」
「では、今度の週末うちにいらっしゃい」
「え?」
「私は、君と一緒に明けてゆく空を見たい…これは単なる私の夢ではなく、君への希望、そして提案です」
山南を見つめる千鶴の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
「山南先生の隣で夜明けを見たいです。朝まで……いえ、昼も夜も、いつでも先生の側にいたいです」
「私だって……君にはいつも、私の手と目の届くところにいてほしいと思っています」
時を超えて叶えられた願い。
結ばれていた縁の深さに、今の二人がはっきりと気付いている訳ではないけれど――
明るく変わっていく空の色のように、未来は希望に満ちている。
この時代に再び巡り合えた彼らは、澄んだ空気の窓辺でそう語り合うだろう。
夢物語ではなく、これから歩んでいく現実のひとこまとして。
*
始業まではまだ間があるというのに、廊下を走り抜けていくひとつの影。
その足音は保健室の前で止まる。
部屋の中の山南が廊下に目をやった瞬間、ドアが勢いよく開いて千鶴が飛び込んできた。
「おや、雪村君。そんなに血相を変えてどうしたんですか?」
山南は事務机の前に立ち上がると、穏やかな笑みを彼女に向ける。
廊下を全力疾走してきたらしい千鶴は、乱れる息を整えようと胸を押さえていたが、キッと顔を上げると山南に駆け寄った。
「……先生!」
「なんでしょう?……わっ!」
顔を歪め目を潤ませていた千鶴は、山南の胸に飛び込むと、両腕を彼の背中に回してギュウと抱きついた。
そんな彼女の背を優しくなでながら、山南が問いかける。
「雪村君、何があったのですか?ゆっくりでいいですから、私に聞かせてくれませんか?」
千鶴は、いやいやをするように小さく首を左右に振る。
「さて、困りましたね。そろそろ山崎君も顔を出してくれる頃合いですし」
「すみません、俺ならここにいます」
そこには、ちょうど現れたらしい山崎が気まずそうに立っていた。
「取り込み中のようですから、俺はまた昼休みにでも出直してきます」
そう言ってくるっと向きを変えようとした山崎だったが、千鶴の声に立ち止まった。
「山崎先輩だって!……あんな夢を見たらっ……」
そこまで言うと、千鶴の目からは大粒の涙があふれ出した。
「ああ、辛く悲しい夢を見たのですね?」
再び山南にしがみついた千鶴は、しゃくりあげながら何度もうなずく。
「山南先生が……血だらけで、何度も何度も同じ夢を……だから、先生に何かあったんじゃないかって……」
「それは怖かったでしょう、心配かけましたね」
そうささやきながら千鶴の背中をさする山南に、壁掛けの丸時計をちらっと見上げて山崎が言う。
「俺はそろそろ教室に向かいます。雪村君をこのままここで休ませるのでしたら、原田先生に伝えておきますが」
「ああ、そうしていただけると助かります」
「では……」と歩き出した山崎が、何かを思い出したように足を止める。
「そうだ、雪村君」
「?……はい」
「悪い夢を見てしまった時には、獏に食べてもらえば大丈夫だと聞いたことがある。次からはそうしたらどうだ?」
「夢を食べる獏……そういえば聞いたことがあります」
微かにうなずき山崎は続ける。
「失念してしまったが、悪夢を消すためのまじないの言葉もあるらしい。もっとも、山南先生が側にいてくださるならば、悪い夢など見ないですむのかもしれないが」
山崎の言葉に被せるように予鈴が鳴り、彼は慌てて部屋を出ていった。
*
山崎の姿が扉の向こうに消え、保健室はシンと静かになる。
山南は、千鶴の肩に手を置いた。
小刻みに震えている小さい肩をそっと押して体を離すと、不安そうに見上げる彼女の頬を優しくなでる。
「ベッドで休むといい。なんなら子守歌でも歌いましょうか?」
山南の指で涙をぬぐわれた頬をほんのり染めて、千鶴は笑う。
「ふふ、子守歌ですか?」
「その様子では、よく眠れなかったのでしょう。子守歌がご不満でしたら、愛の歌にしておきますよ?」
おどけたような山南の口ぶりに、千鶴は再びクスリと笑ってから、はにかんだ様子で瞳を伏せた。
「歌もいいですけど……」
一瞬ためらった後、彼女は決心したように言った。
「そばにいてください。いえ…枕元じゃなくてもいいんです。目が覚めた時に、先生の姿が見えるように……」
「君は、案外甘えん坊なのですね」
からかうような山南の口調に軽く抗議の視線を向けてから、千鶴はブレザーを脱いだ。
ベッドに横たわる千鶴の傍らに、丸イスを運んできた山南が腰かける。
「雪村君、手を出してください」
「手……ですか?」
千鶴がおずおずと差し出した右手を、山南の両手が包み込む。
「つらく悲しい気持ちや出来事は、誰かに話すことでいくらか軽くなりますよ?」
「先生…………」
しばし迷う様子をみせてから、山南が非業の死を遂げる夢を見たのだ、と千鶴はポツポツ話し出す。
はっと目が覚めて『夢だった……』と安堵するも、再びうとうと微睡むと、目の前に現れるのは同じ光景。
目覚ましが鳴り、寝不足のまま起きて身支度をしつつも、夢のことが頭から離れない。
これはもう、不吉極まりない何かの予兆に違いない。
いや、もしかしたら、今この時、山南の身に何か恐ろしいことが起こっているのかもしれない。
そう思ったらいても立ってもいられず、一刻も早く山南の無事を確かめたくて走って来たのだと、彼女は時折言葉につまりながら説明した。
「私の身を案じて走ってきてくれたのですね……不謹慎かもしれませんが、嬉しいです」
千鶴は、ちょっぴり冷たい山南の手に、自分の左手を重ねた。
「先生、どこにも行かないで下さい。ずっとここに、手の届くところにいてください」
未だ夢に怯えているのか必死に訴える千鶴に、山南は優しく諭すように言う。
「知っていますか?夢の中での“死”は、現実の“死”とは意味合いが異なるのですよ」
「え、では、どんな」
「私が覚えているのは、『大きな変化を暗示している』とか、『逆夢だから実は幸運な夢だ』、といった内容です。ですから、君はこれっぽっちも不安に思わなくていいんですよ」
「よかった……!」
ホッと胸をなでおろす千鶴を、山南はいとおしそうに見つめる。
*
この学校に入学した千鶴が初めて保健室を訪れた時から、二人は互いにひかれていた。
まるで、想い合うことが定めであったかのように。
とはいうものの、ここは学校で、立場は教師と生徒。
好意を寄せ合っていることはわかっていながらも、今の彼らに出来るのは、昼休みや放課後の保健室で時間と空間を共有することくらいだ。
だから、こんなふうに二人きりの密な時を過ごすのは、実は初めてだった。
「不思議なものです……こうして君の手に触れるのは初めてなはずなのに、何故か懐かしい気がします」
「私もです」
千鶴は、山南の手を強く握って引き寄せる。
「懐かしいのに不安になります。夢のせいだけじゃなく……この手を離したら、いつか先生がいなくなってしまいそうで……」
「こんなに近くにいるのに、何が君をそんなに不安にさせるのでしょうね?」
重ねられた手をほどくと、山南は千鶴の髪をそっと撫でた。
「私は、いつだってここにいますよ、君のそばにね」
「はい…………でも」
千鶴は、毛布を引きあげて鼻の辺りまで被り目を伏せた。
「……きっと、私が先生のことを好きすぎて……でも、先生はいつか、もっと大人の女の人を好きになってしまうに違いないんです、だから……」
千鶴が口を閉ざすと、山南は深いため息をついた。
「馬鹿なことを……そういう心配をしなければならないのは、私の方ですよ?」
「?」
「君は、咲きはじめの可憐な花。いつか私のことなど、一時の気の迷いであったと打ち捨てる、そんな日が来てしまうのではありませんか?」
山南がそのように考えていたなど思いもよらず、千鶴は思わず目を見開いた。
何も言えない千鶴に、山南はにっこりと微笑みかける。
「さあ、ゆっくりとお休みなさい。私には、悪夢を違えたり禍々しいものを祓ったりする能力はありませんが、側にいることくらいは出来ます」
「そうしていただけることが……先生が側にいてくださることが、一番嬉しいです」
見つめ合い、どちらからともなく微笑む。
「雪村君?」
「はい」
「君は、夜が明けていく様を見たことはありますか?」
「いえ……先生はご覧になったことがあるんですか?」
「休日の前の晩など、夜更かししてそのまま徹夜してしまったりしますよ。それで、空の色が変わっていく様子を眺めるのが好きなんです」
「……私も見てみたい気がします」
「では、今度の週末うちにいらっしゃい」
「え?」
「私は、君と一緒に明けてゆく空を見たい…これは単なる私の夢ではなく、君への希望、そして提案です」
山南を見つめる千鶴の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
「山南先生の隣で夜明けを見たいです。朝まで……いえ、昼も夜も、いつでも先生の側にいたいです」
「私だって……君にはいつも、私の手と目の届くところにいてほしいと思っています」
時を超えて叶えられた願い。
結ばれていた縁の深さに、今の二人がはっきりと気付いている訳ではないけれど――
明るく変わっていく空の色のように、未来は希望に満ちている。
この時代に再び巡り合えた彼らは、澄んだ空気の窓辺でそう語り合うだろう。
夢物語ではなく、これから歩んでいく現実のひとこまとして。
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