ささやかなしあわせ
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
『鬼の霍乱』
薄桜学園の誰もが、まさにその言葉を思い浮かべたに違いない。
永倉が風邪で寝込んだため、一時限目の数学は自習になるという知らせに、一年一組の教室は蜂の巣をつついたように賑やかになった。
「珍しいこともあるもんだな、永倉先生、絶対風邪なんかひきそうにないのに」
「筋肉で風邪の菌をはね返す!とか言いそうだよな」
「ははは、確かに」
無責任に笑い合うクラスメート達に内心怒りを感じながら、千鶴は居ても立ってもいられない心持ちになるのだった。
昼休み。千鶴は職員室に駆け込んだ。
「原田先生!」
「ああ、千鶴……どうした?」
永倉と同じアパートに住んでいる原田は、永倉と千鶴の関係を知る数少ない人間のうちの一人だ。
「あの……永倉先生は、大丈夫なんでしょうか?」
「さすがに、おとなしく寝てるはずだが…やっぱり心配か?」
辺りに人のいないことを確認してから、原田が千鶴に向き合う。
「それは、もちろん……お一人では買い物にも出られないでしょうし、お家のことも出来ないでしょうし……だから、お見舞いに行きたいんですけど」
「部屋の鍵は持ってんだろ?」
「はい。……でも……永倉先生、私になんにも言ってくださらないから、かえってご迷惑なのかなって……」
「それはきっと、おまえに心配かけたくないって、あいつなりに気ぃ遣ってんだよ」
「そんな……こういう時にこそ、そばにいてお役に立ちたいのに……」
「まあ……惚れた女に、情けない自分の姿を見せたくねえってのもあるんだろう」
心外だ、と言わんばかりに、千鶴が頬をふくらませる。
「そんなふうに思われちゃったら私だって、永倉先生の前では、いつも取り繕っていなくちゃならなくなります」
「確かに、そう言われればそうだよな」
真剣な表情で自分を見上げる千鶴。
少々永倉に妬ましさを覚えつつも、原田は笑顔を浮かべた。
「それに、弱ってる時こそ、大切な相手がそばにいてくれりゃ安心するってもんだ。変な遠慮は要らねえから、あいつんところに行ってやってくれるか?」
「はい!ありがとうございます、原田先生」
放課後、ドラッグストアに立ち寄ってから、千鶴は永倉のアパートを訪ねた。
*
眠っているところを起こしてもいけないので、玄関チャイムは鳴らさずに部屋に入る。
「勝手にお邪魔してごめんなさい~」
小さくつぶやきながら忍び足で進むと、奥の部屋に布団をかぶって横たわる永倉を見つけた。
その枕元に正座して顔を覗き込む。
「新八さん、千鶴です。おかげんはどうですか?」
「うう……千鶴ちゃんの幻が見えるなんて……俺そんなにやべぇのか……」
永倉の額に手を当て、千鶴がふんわりと微笑む。
「ふふ、幻なんかじゃありませんよ」
当てていた手を離すと、代わりに発熱用の冷却シートを永倉の額に乗せる。
「まだお熱があるようですから……これで少しは楽になると思います」
「ああ……ひんやりして気持ちがいいな」
「もう少し寝ててください。その間に私、お家のことをしておきます」
「すまねぇな、千鶴ちゃん……お言葉に甘えさせてもらうよ」
すぐに再び寝息をたて始めた永倉に微笑みかけ、見た目よりも柔らかな髪をそっと撫でると、千鶴は静かに立ち上がった。
「さ~て、お洗濯して、洗い物して……お粥も作らなくちゃ!」
小一時間ほどたっただろうか。
目を覚ました永倉は、ゆっくりと体を起こした。
その気配に気付いた千鶴が、駆け寄って布団の脇に座り込む。
「新八さん!起きても大丈夫なんですか?」
「ああ、おかげでだいぶ楽になった。千鶴ちゃん……ありがとうよ」
「いえ……」とはにかみながら、千鶴は永倉の顔を覗き込む。
「おなかすきませんか?お粥、できてますよ」
「……なんだか、夢みてえだ」
「?」
病に気が弱くなっているのだろうか。
布団の上で軽く握った両の拳に目を落としながら、永倉がしみじみと言う。
「昨日の晩から、動きたくても動けねぇ、寝てることしかできなくて……千鶴ちゃんに会いてえなあ~って思ってたら、叶っちまった」
千鶴は、子供を見守る母親のようなあたたかい眼差しで永倉を見つめ、彼の言葉を待つ。
「こんな大きな幸せ……後でドカンとバチを当てられやしねぇか、心配になっちまうな」
普段の永倉からは想像がつかない後ろ向きな言葉。
それを意外に思いながら、けれど、彼がそんな表情を自分に見せてくれたことを、千鶴は嬉しく思う。
「きっと大丈夫ですよ。こうしてそばにいられることは、私にとっての幸せでもあるんですから」
「そっか……こうしてみると、普通に朝が来て飯を食えて……それだけでも、すげえ有難いことなんだよな」
「当たり前すぎて意識してないことですけど……確かに、そうですよね」
何気ない小さな幸せ。
宝くじや競馬の大穴を当てる、そんなとてつもなく大きな“ラッキー”じゃなく。
ほんの小さな幸せが積み重なって、胸の奥にあたたかな日溜まりが出来て。
ささやかなハッピーに、ありがとうの笑顔があふれて。
目まぐるしいこの時代に忘れてしまいがちな何かを、神様は、こうして思い出させてくださるのかもしれない。
「人間ってもんはよ、欲張っちまうと『まだまだ足りない』って気持ちが強くなる。だから『自分は不幸だ』と思うんだよな、きっと」
「わかる気がします」
千鶴はうなずく。
「人って……知らず知らずのうちに多くを望みすぎてしまうから……だから余計に、満たされない思いが大きくなってしまうんですね」
永倉は、まだ熱っぽい体に千鶴を抱き寄せた。
「俺の一番の幸せは、なんたって千鶴ちゃんがそばにいてくれることだ」
千鶴も、永倉の背中に腕を回す。
そして顔を上げると、永倉の首すじに頬を寄せた。
「新八さん、まだ熱いですね。お粥を召し上がってから、もうひと眠りなさってはいかがですか?」
「……ああ、んじゃ、そうさせてもらうとするか。千鶴ちゃんがいてくれて幸せ、おいしいお粥を作ってもらえて幸せ、また横になれる布団があって幸せ…俺って実は、幸せ尽くしなんじゃねぇか?」
「嬉しいですね、二人そろって幸せなんですから」
顔を見合わせて笑う――これも幸せ。
キッチンにお粥を取りに立つ千鶴の後ろ姿を、微笑みながら見つめる永倉だった。
*
薄桜学園の誰もが、まさにその言葉を思い浮かべたに違いない。
永倉が風邪で寝込んだため、一時限目の数学は自習になるという知らせに、一年一組の教室は蜂の巣をつついたように賑やかになった。
「珍しいこともあるもんだな、永倉先生、絶対風邪なんかひきそうにないのに」
「筋肉で風邪の菌をはね返す!とか言いそうだよな」
「ははは、確かに」
無責任に笑い合うクラスメート達に内心怒りを感じながら、千鶴は居ても立ってもいられない心持ちになるのだった。
昼休み。千鶴は職員室に駆け込んだ。
「原田先生!」
「ああ、千鶴……どうした?」
永倉と同じアパートに住んでいる原田は、永倉と千鶴の関係を知る数少ない人間のうちの一人だ。
「あの……永倉先生は、大丈夫なんでしょうか?」
「さすがに、おとなしく寝てるはずだが…やっぱり心配か?」
辺りに人のいないことを確認してから、原田が千鶴に向き合う。
「それは、もちろん……お一人では買い物にも出られないでしょうし、お家のことも出来ないでしょうし……だから、お見舞いに行きたいんですけど」
「部屋の鍵は持ってんだろ?」
「はい。……でも……永倉先生、私になんにも言ってくださらないから、かえってご迷惑なのかなって……」
「それはきっと、おまえに心配かけたくないって、あいつなりに気ぃ遣ってんだよ」
「そんな……こういう時にこそ、そばにいてお役に立ちたいのに……」
「まあ……惚れた女に、情けない自分の姿を見せたくねえってのもあるんだろう」
心外だ、と言わんばかりに、千鶴が頬をふくらませる。
「そんなふうに思われちゃったら私だって、永倉先生の前では、いつも取り繕っていなくちゃならなくなります」
「確かに、そう言われればそうだよな」
真剣な表情で自分を見上げる千鶴。
少々永倉に妬ましさを覚えつつも、原田は笑顔を浮かべた。
「それに、弱ってる時こそ、大切な相手がそばにいてくれりゃ安心するってもんだ。変な遠慮は要らねえから、あいつんところに行ってやってくれるか?」
「はい!ありがとうございます、原田先生」
放課後、ドラッグストアに立ち寄ってから、千鶴は永倉のアパートを訪ねた。
*
眠っているところを起こしてもいけないので、玄関チャイムは鳴らさずに部屋に入る。
「勝手にお邪魔してごめんなさい~」
小さくつぶやきながら忍び足で進むと、奥の部屋に布団をかぶって横たわる永倉を見つけた。
その枕元に正座して顔を覗き込む。
「新八さん、千鶴です。おかげんはどうですか?」
「うう……千鶴ちゃんの幻が見えるなんて……俺そんなにやべぇのか……」
永倉の額に手を当て、千鶴がふんわりと微笑む。
「ふふ、幻なんかじゃありませんよ」
当てていた手を離すと、代わりに発熱用の冷却シートを永倉の額に乗せる。
「まだお熱があるようですから……これで少しは楽になると思います」
「ああ……ひんやりして気持ちがいいな」
「もう少し寝ててください。その間に私、お家のことをしておきます」
「すまねぇな、千鶴ちゃん……お言葉に甘えさせてもらうよ」
すぐに再び寝息をたて始めた永倉に微笑みかけ、見た目よりも柔らかな髪をそっと撫でると、千鶴は静かに立ち上がった。
「さ~て、お洗濯して、洗い物して……お粥も作らなくちゃ!」
小一時間ほどたっただろうか。
目を覚ました永倉は、ゆっくりと体を起こした。
その気配に気付いた千鶴が、駆け寄って布団の脇に座り込む。
「新八さん!起きても大丈夫なんですか?」
「ああ、おかげでだいぶ楽になった。千鶴ちゃん……ありがとうよ」
「いえ……」とはにかみながら、千鶴は永倉の顔を覗き込む。
「おなかすきませんか?お粥、できてますよ」
「……なんだか、夢みてえだ」
「?」
病に気が弱くなっているのだろうか。
布団の上で軽く握った両の拳に目を落としながら、永倉がしみじみと言う。
「昨日の晩から、動きたくても動けねぇ、寝てることしかできなくて……千鶴ちゃんに会いてえなあ~って思ってたら、叶っちまった」
千鶴は、子供を見守る母親のようなあたたかい眼差しで永倉を見つめ、彼の言葉を待つ。
「こんな大きな幸せ……後でドカンとバチを当てられやしねぇか、心配になっちまうな」
普段の永倉からは想像がつかない後ろ向きな言葉。
それを意外に思いながら、けれど、彼がそんな表情を自分に見せてくれたことを、千鶴は嬉しく思う。
「きっと大丈夫ですよ。こうしてそばにいられることは、私にとっての幸せでもあるんですから」
「そっか……こうしてみると、普通に朝が来て飯を食えて……それだけでも、すげえ有難いことなんだよな」
「当たり前すぎて意識してないことですけど……確かに、そうですよね」
何気ない小さな幸せ。
宝くじや競馬の大穴を当てる、そんなとてつもなく大きな“ラッキー”じゃなく。
ほんの小さな幸せが積み重なって、胸の奥にあたたかな日溜まりが出来て。
ささやかなハッピーに、ありがとうの笑顔があふれて。
目まぐるしいこの時代に忘れてしまいがちな何かを、神様は、こうして思い出させてくださるのかもしれない。
「人間ってもんはよ、欲張っちまうと『まだまだ足りない』って気持ちが強くなる。だから『自分は不幸だ』と思うんだよな、きっと」
「わかる気がします」
千鶴はうなずく。
「人って……知らず知らずのうちに多くを望みすぎてしまうから……だから余計に、満たされない思いが大きくなってしまうんですね」
永倉は、まだ熱っぽい体に千鶴を抱き寄せた。
「俺の一番の幸せは、なんたって千鶴ちゃんがそばにいてくれることだ」
千鶴も、永倉の背中に腕を回す。
そして顔を上げると、永倉の首すじに頬を寄せた。
「新八さん、まだ熱いですね。お粥を召し上がってから、もうひと眠りなさってはいかがですか?」
「……ああ、んじゃ、そうさせてもらうとするか。千鶴ちゃんがいてくれて幸せ、おいしいお粥を作ってもらえて幸せ、また横になれる布団があって幸せ…俺って実は、幸せ尽くしなんじゃねぇか?」
「嬉しいですね、二人そろって幸せなんですから」
顔を見合わせて笑う――これも幸せ。
キッチンにお粥を取りに立つ千鶴の後ろ姿を、微笑みながら見つめる永倉だった。
*
1/1ページ