もの想い

田んぼに水が入り、蛙達のにぎやかな合唱が聞こえる。

梅雨にはまだ早いけれど、十分に夏の気配を含んだ空気が私の部屋の中にも入り込んでくる。


私の世界でも、そろそろ田植えの時期なんだろうな…

学校帰りに自転車で走りながら眺めた水田の緑。
夜、うるさいくらいの蛙の声をBGMに、試験勉強に悪戦苦闘したこと。

急に元の世界の事柄があれこれ頭に浮かんできて、泣きたくなる。


――だめだ、こんな晩は眠れない――


私は布団を抜け出すと、縁側に出て膝を抱えた。

ひんやりとした風が頬をなでる。
世界が違っても、初夏の夜のこの風は、同じ匂いがする。

とりとめもないことを考えながら、私はじっと蛙の声に耳を傾けていた。



どのくらいそうしていたのだろう。

外の喧騒で障子の開く音に気付かなかったらしい。
いつの間にか月讀さんが近くにいて、私の隣に腰かけた。


「瑠璃さん、どうしました?眠れませんか?」

「すみません、月讀さん……起こしてしまいました?」

「縁側からあなたの気配が消えないので、心配になって来てしまいました」

「……蛙の声を聞いていたんです」

ふと気が付くと、あれだけ賑やかだった蛙達は、シーンと静まり返っている。

「あれ?今まで確かに……」

「きっと、人の声に警戒しているのでしょう」

月讀さんは微かに笑うと、静かになった外の方に目をやった。


「泣いていたのですか?」

図星をさされ、また零れそうになる涙を止めるため、私は心の中で悪態をつく。

――泣いてたかどうかなんて、いちいち指摘しないで、ほっといて。
そんなふうに女心がわからないから、月讀さんいつまでも独り身なんだ…――


黙って庭石を見つめたままの私に視線を戻し、月讀さんはフッと息を吐くと言った。

「私では、あなたの支えになれませんか?」
「え……?」

言葉の真意をはかりかね、私は首をかしげたまま黙りこむ。

月明かりに照らし出され、月讀さんの表情がよく見える。
修行やお仕事の時の厳しさはなく、とても穏やかな顔だ。

「私は……瑠璃さん、あなたをただの術士ではなく、生涯添い遂げたい相手として見ているのです」

「そ、そんなこといきなり言われても……」

私は赤くなった頬を見られないように、顔をそらし俯いた。

「あなたは……凛と気高く堂々としていて、そのくせどこか危なっかしい」

「未熟なもので、すみません」

「そんなあなたを、つい目で追ってしまうのです」

「…………」

返事のしようがなく黙りこくってしまった私の頭を、月讀さんがそっとなでた。

「思うことがあるのなら、私や久遠に甘えていいのですよ。もっと頼ってください。私が一番近くにいるのですから……」

あなたは何でも独りでかかえこんでしまうから……と月讀さんは笑った。


一瞬雲に隠れた月が、またすぐに顔を出して淡い光を放つ。


まっすぐ前に視線を落としたまま、私は口を開く。

「……元の世界を思い出さない、と言えば嘘になります……でも、今私がいるのは常盤國で……」

声は出さないけれど、月讀さんが私の言葉の続きを待っていてくれるのがわかる。

「私は……この世界が好きです。久遠も、それから月讀さんのことも……大好きです。だから……」

私はやっと、素直に月讀さんの方を向くことができた。


「ずっと、ここにいてもいいでしょうか?月讀さんのそばに……置いてもらえますか?」

「当たり前でしょう」

月讀さんが、いたずらっぽく目を細めて笑う。

「あなたが何と言おうと、私はあなたを手離すつもりはありません」

そう言って、月讀さんは私をそっと抱き寄せた。

私は、彼の肩に頭をあずける。


止んでいた蛙達の声が、再び響き渡る。

どこの世界でも同じ、穏やかで優しい時間。



お手洗いに起きた久遠が縁側に出てくるまで、私達は寄り添ったまま月を見ていた。

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