夢のようにあたたかいif

池ほとりで佇む少女に男は声をかける。

「君は何度でもここへ戻ってくるんだな。
そんなに俺の事が嫌いなのか?」

少女はゆっくりと振り返る。
その表情はとても静かで波紋のない清んだ水面のよう。

「ママの声が聞こえなくなったわ」

「もう、数年も前から母君はこの池に来ていない」

「そう」

少女は水面に向き直る。

清んだ水面は鏡の様に世界を写すものだ。
水鏡には男が彼女を逃がすまいとする姿が有々と写っていた。

しかし少女は一向に動こうとしない。
毅然として水面を見つめ続けている。

「きっと後悔と絶望の中、息絶えたのでしょうね」

「優しく美しい母君だった。
君が夢に溺れている最中も一時も忘れる事は無かっただろうな」

挑発と取れるその言いよう。
彼女は特に反応しなかった。
お前のせいだろうと、そう罵られてもおかしくない。
しかし、無心に水面を見つめる少女とは対に、苦痛に歪むような無様な表情が見てとれた。

「どうして、私だったの?」

水鏡越しにお互いの視線がぶつかる。

「暖かかったから…
君が、俺の中に落ちたとき、本当は返してやろうと思った。
でも、抱き止めた時の温もりが恋しくて、どうしても放してやることが出来なかった」

化け物はぎゅっと後ろから少女を抱き締める。
逃げ出さぬように固く、強く。
その手が微かに震えているのがわかり、そっと回された腕に手を添えた。

「寂しかったのね」

「………」


「私が夢現で笑っているときも、
ずっとママを慰めていてくれたんでしょ?」

「………」

返事を返さない男に、優しく問いかけ続ける。
まるで、悪戯をした子供を諭す母のような穏やかさでゆっくりと問いかけ続けた。


「ずっと、ずっと、後悔と自己嫌悪に苛まれながら声の届かないママに謝っていたんでしょう?」

優しく添えられた手も、優しい声も、少女の全てがこれから結末を予想させた。

しかし、化け物は許せなかった。
少女が自分を許すことが、どうしても許せなかったのだ。
少女が語りかける優しい声色に耐えきれず、思わず声を荒げた。

「やめろ!
俺は…!俺は…
お前に優しくされる権利なんて無いんだ…」

長く連れ添った身。
彼のそれが自虐であることは良くわかっていた。
しかし、いくら加害者が自らを傷付けよとも、被害者が救われる訳ではない。
少なくとも、少女はもう、そんなことは望んでいない。

許すと決めたのだ。



「そうね。貴方はどうしようもなく最低な人よ」

「ねえ、勘ちゃん…」

「私、姿は変わらないけど、向こうで過ごすよりこちらで過ごした時間の方が長くなってしまったわ」

「ごめん…」

「貴方と過ごした時間の方が長くなってしまった」

「………ごめん…っ」

「もう、ママは私に謝らなくてすむ、だから貴方も…」

「もう、謝らないで?」

「私は、ママと勘ちゃんを許す」

 “許す” 少女は静に、だが力強く言い切った。
それは絶対的な言霊となった。
尾浜勘右衛門にとって、そして母親を苦しませた恨みに固執した彼女自信もまた救われたのだ。

彼女はここに来て初めて笑みを浮かべた。


「だからもう、謝らなくても良いんだよ?
誰の記憶も消さなくて良いの。
貴方を支えていく覚悟が出来たから」

「ここは貴方の記憶の世界。
輪廻から取り残された貴方は、一人寂しく思い出の中で日々を繰り返していた。
私が落ちたとき、嬉しかっただけなんだよね?」

本当はずっと前から気が付いていた。
水面を通じて、嫌わないでと泣いている彼が見えていた。
今も、彼女にはボロボロ泣いている顔が見えている。

「うん」

「私と過ごせて楽しかったんだよね。
ただ、寂しかっただけなんだよね」

「ああ…ああ…本当にすまなかった…」

ボロボロと本当に情けない、ただの寂しがり屋の男の子。

「貴方を許すよ。
一緒に夢に溺れよう。
もう誰も引きずらなくて良いように」


彼女は決めたのだ。
そして彼も。


「ありがとう…」


寂しがりやの化け物も。
子を守れなかった母も。
許せなかった人間の少女も。






これは全てが許された、ifの世界。
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