口笛





驚いたのは一瞬だった。

赤色は瞬時に失せ、世界はまた灰色にもどる。


色が消えたのではない。
咄嗟にその赤色の持ち主を捜すため、視線をはずしたのだ。
そして黒い影が今まさに土手の斜面、薄暗い闇のなかに倒れこもうとしている姿を見つけたのである。





その浮遊感に嘉国は「あ」と声をあげる間もない。
すさまじい剛風をうけ、遮るものがなかった土手の上で、嘉国は驚くほどあっけなく吹き飛ばされた。

そして目に入ったのは宙空を舞う赤いマフラー、自分の頬から飛んだ雫、鉄橋をわたる電車、斜めになる風景。

それから。


「(あ、)」




こちらに向かって、走る浩一の姿。

「わあっ!」

ガガガ、と衝撃が嘉国の体中に走った。勢いよく転がり落ちる彼を追って、浩一がその急な斜面をまるで滑るように駆け降りる。
勢いのあまり、バウンドした嘉国の襟首をなんとか掴んだが、腕にぐん、とかかったその重さに浩一は顔を歪めた。

「(くそ)」

土手下の河原は増水しており、先の見えない水が黒々とうねりながら不気味な光を放っている。

この漆黒の濁流に飲み込まれてはひとたまりもない。

「(止まれ‼)」

浩一は咄嗟に身体を斜面に沿わせ足を伸ばし、かかとで斜面を削るようにブレーキをかけた。
斜面が終わりに近づく。
黒い水面が迫る。

浩一は嘉国の頭を両腕で抱え、衝撃に備えた。












黒い水面に窓から洩れる明かりを散らしながら、タタン、タタンと電車が遠のいてゆく。




ぜーぜーと肩で息をしながら、浩一はそれを見送った。

土手を転がり落ちて、一瞬のこと。

あと数十センチ。
靴でえぐった地面の堰に、周りからじわりと水がしみ込んでくるのが見えたが、流れの早い水面には及ばなかった。
嘉国の頭を抱いていた腕から、力を抜くと、支えを失い重力に従った彼の頭は地面へしたたかにぶつかり、「いてっ」というまぬけな声が下から聞こえる。

風は、いつの間にか止んでいた。




浩一の足元すれすれを、水がかすめてゆく。
土手の傾斜を派手に抉ったせいで、泥まみれになった靴を洗うには都合がよかった。

「…」

浩一は靴を舐めるように触れては流れてゆく水面をみて、安堵から身体が萎れるほど大きなため息をついていた。

隣では全身土埃にまみれた嘉国がうつ伏せになりながら、目の前に迫る水を眺めている。
ぼうぜんとしているのか分からなかったが、おかしな体制のまま、ぴくりとも動かない。

タタン、タタンと光の粒でできたヘビのおもちゃのような電車が、闇にとけて見えなくなるまで、二人は黙って座りこんでいた。
やがて電車の音も聞こえなくなって、あたりから水の流れる音だけになると、浩一は漸く隣を見た。

嘉国はまるでおとなしく地面に伏せっていてときどき思い出したように瞬きをしている。

「(…あ)」

上からその様子を見ていた浩一は、嘉国の鼻の頭が土埃で汚れていることに気がついた。
そして無意識に、その鼻の頭に手を伸ばす。

「…あ」

自分の鼻の汚れをぬぐった手が遠ざかるのを、嘉国は不思議そうな顔をして見ていた。

「あ…」

それに気がついた浩一は自分の行動を顧みてハッとすると、勢いよく立ちあがり、嘉国を置いて土手を登りはじめた。

喧嘩していたことをすっかり忘れていたのだ。

「ちょ、」

慌てた嘉国も伏せっていた身体を起こして浩一の後を追おうとした。

しかし。

「ぎゃあ!」

体制を崩した嘉国はぬかるんだ地面に足をとられて、ふたたび暗い水面へ身体を傾けた。だが。

「うおっ!」

咄嗟に腕を引かれて、土手側に引き寄せられる。
そこには険しい顔をした浩一の姿があった。

「ひ、ろ…」

「…何?これも計算なわけ?」

掴まれた腕に力を込められて、嘉国はその痛さに顔をしかめる。

「ち、ちが、」

「じゃあ何だよ。このまま流れて行きたかった?」

「…っ」

「お前さ…心底ムカつくな」

浩一の言葉にじわ、と切ないものが込み上げてくる。
浩一の瞳に映る自分がひどい顔をしているのが見えたが、嘉国はこみ上げる悲しみが抑えきれなかった。

「(やばい)」



嘉国はボロ、と大粒の涙を零した。

「へえ、泣けば許して貰えると思ってんの。」

声が出ない。
嘉国は止まらなくなった涙と嗚咽を漏らしながら必至に首を振った。


違う。


「わざとじゃねぇなら、余計性質が悪いよな。」

そう言って、浩一は嘉国を突き放すように腕から手を離した。
もう嘉国の涙は制御の仕様がないほどで、滂沱に涙を流しながら嘉国は言葉にならない呻き声をあげる。

「うざ…」

浩一のため息と呆れたような声に、嘉国の涙腺は爆発した。
面倒に思われているのが悲しくて、愛想を尽かされたのが悲しくて、それでも一言謝りたくて。

嘉国が嗚咽の合間に必死に「ごめん」と言おうとしていたその時だった。

「お前さ…せめて喧嘩のときぐらい、俺が安心して怒れるようにしろ。」

「……………?」

「泣きたきゃ勝手に泣いてろ。時間の無駄だ。用が無いなら俺は帰る。」

「…ひ、ろ」

「…言いたい事があるなら、一回だけ待ってやる。」

「…」

一瞬、浩一が何を言ったか理解できずに、嘉国がしゃっくりをあげながらポカンもしていると、浩一は突如として嘉国の頭を思い切り殴った。

「い"っ!!!!」

強烈な痛さに嘉国が目玉を飛び出さんばかりに見開いて悶えている隙に、浩一はくるりと反転をして、土手を器用に登って行った。

「⁇⁇」

困惑と腹立たしさで、一気に涙が引っ込んだ嘉国はバッと顔を上げ、浩一の背中を睨みつけた。
しかしすぐにその意図に気が付いて、よろ付きながらも彼の背中を追って土手を駆け上がる。
もはや夜の帳が降りた街中は薄暗い。
その中を暗闇を割くように嘉国は目の前の背中に腕を伸ばした。


「浩一っ‼」


不覚にも嘉国はチャンスを与えられた。
欲しくて欲しくて堪らないチャンスだった。



「ぐっ」

背中に突撃された浩一が一瞬うめいたが、嘉国は構わず浩一の腹に腕をまわしてぎゅっと抱きしめる。

「…」

「…何」

「…」

「…痛いんだけど。」

「…」

「…」


緊張に身体がおかしくなってしまうのではないか、という程震えている。嘉国はほとんどパニックを起こしている状態だった。



浩一のくれたチャンスは一回。
これでダメだったら…

駄目、だったら…。

恐ろしい考えが巡り、嘉国が怖じ気付いて無意識に浩一に抱きついていた腕に力をこめた。



一番で居たい。
浩一の一番になりたい。
それなのに、やり方が分からない。

浩一が自分を特別に思ってくれているのは嘉国もわかっている。
だが、それをどう確かめたら良いのか分からない。


その時だった。
嘉国の手の上に、そっと暖かい手が重なった。
驚いた嘉国が顔をあげる。
まるで安心させるかのように、腹に巻きつけた嘉国の手を優しく、本当に優しく包むように。


手の持ち主は背中を向けているので、その表情を伺い知ることは出来ない。
それでも、重ねられた手が暖かくて。嘉国は堪らない気持ちで、その背中に顔を埋めた。




「……すきだ。」





街頭が明滅した。
薄暗い土手にも、連なってポツポツと明かりが灯されてゆく。風はおさまったが、川はまだごうごうと音を立てて流れている。

嘉国の声は、その音にかきけされてしまいそうなほど、小さいな小さなものだった。


「(…はじめからそう言えよ。タコ。)」

浩一は毒づいたが、それくらい言ってもバチはあたらないだろう。
まだ不機嫌なままの浩一が振り返るために嘉国の腕を外すと、顔をあげた嘉国がぐちゃぐちゃになった泣き顔をあげて傷ついた顔をした。

「うわ、きたねぇ顔」

「うぇ、」

冷たい風に吹きさらされた頬は、さきほど飛ばされたマフラーのように赤い。
そのぐちゃぐちゃになった顔に覗き込んだ浩一は、いつものように優しく笑うと、自分よりも低い位置にある頭を自分の肩口に引寄せて、ぽんぽん、と撫でた。

「よくできました。」

その言葉に、嘉国は火がついたように泣き出し、浩一は縋り付く嘉国の背中をただただ優しく抱きしめて、自分も嘉国の肩に顔を埋める。

安心して泣けたのは浩一も同じだった。






一通り泣き通して、落ち着いた頃…。
どちらともなく顔をあげて身体を少しだけ離すと、互いの顔が見え、照れて色付いた頬と唇に誘われる様に、浩一が嘉国の顔に手を添えようとした…その時だった。

「ぶ!」

甲高い笑い声に、 嘉国は咄嗟に浩一の顔を押し退けた。

「嘉国、てめえ、何すんだ…!」

「だって!後ろ!」

ひどく不満げな浩一が眉間にしわを寄せて嘉国の言うとおり振り向くと、数十メートル離れたところに、他校の女子高生の集団の姿が。

それを見た嘉国が、急いで顔をガクランの袖で拭い、早足で浩一から離れてゆく。
浩一は苛々としながらその後ろを追った。

「おい」

浩一が不満げに嘉国を呼び、その腕を引くと嘉国は顔を赤くしたまま浩一を見た。
女子高生たちの鈴のような笑い声が近づき、嘉国の顔は可哀相なほど赤くなった。

「…」

その顔に、浩一はいかにも不愉快と言った様子で嘉国の腕を離したが、その隣に並び、何事もなかったように歩きだした。
女子高生達がすれ違う横で、嘉国が照れ隠しに、調子の外れた口笛をふくと、女子たちがくすくすと笑う声が聞こえる。

「…」

浩一は、それにどこかムッとして、すれ違った少女達の長い髪から零れたシャンプーの香りが消えないうちに、そのタコのようにすぼめられた口をめがけ、覗き込むように顔を寄せた。


最後にみたのは、嘉国の見開いた目。


少しずつ、色づき始めた街。
ごうごうと流れる川。
調子外れた口笛。




途切れたその音色は、ひどく優しかった。





おしまい。
2/2ページ