口笛
灰色の世界。
そこに、ひょろりと伸びた影を追う。
そいつは一度も振り返らずに、おれは悔しまぎれに何度もその影を踏んづけた。
口笛
北風がびゅうびゅうと吹いている。
「(さむい)」
刺すような冷たい風を顔面に受けて、嘉国は反射的に思わず目を瞑る。
それからおそるおそる、ゆっくりと開いた。
11月末の夕方は驚くほど暗い。
いや、重いといった方が正しいかもしれない。
厚い雲が太陽を遮り、西の空が僅かにてらてらと銀色に光っているだけで街はひどく重く見える。
繁華街に近いこの土手は、風を遮る建物もなく、ことに冷たい風が吹きざらしになっている。
土手の下を流れる大きな一級河川には先日の凍えるような雨のせいで、いつもより大分水位が高くなっているようだ。
ごうごうと大きな音を立てながら灰色の水が下流に向かって流れてゆくのを眺め、嘉国はちいさく溜息を吐いた。
それから顔をあげて寒々とした街並みに目をむけた。
「(どこもかしこも薄暗くて気持ち悪い。)」
先日の穏やかな気候が嘘のように、今日は冷え込んだ。
あまりの寒さに、ようやくクローゼットからマフラーを引っ張り出したくらいだ。
びゅう、とまた風がふき、嘉国は首に巻いたマフラーに顔をうずめた。
「(畜生、さむい)。」
ぎゅう、と再度目を瞑る。
そうしておそるおそる、ゆっくりと開いた。
彼の瞳に映ったのは、暗い空、鈍色の雲、細い街路樹、おおきな川、重い街。
そして
「(振り向きもしねぇ)」
のそりと歩く、黒い学生服の後ろ姿と、そこからのびた薄い影。
喧嘩をするのは毎度のこと。
「(そりゃあ、おれも悪いけどさ。でも、謝るチャンスくらい与えてくれたっていいじゃねぇか。)」
嘉国の前を歩くのは、浩一。
彼の友人だ。
「なあ」
嘉国が呼びかけるがその背中から返事はかえってこない。何度も呼びかけを試みたが、返ってくるのは沈黙ばかりで、嘉国は口をへの字に曲げた。
喧嘩は慣れたものである。
しかし、なまじお互いに仲がよく、遠慮がない分、自分でも気が付かないうちに、ひどく相手を傷つけることがある。
だが浩一は怒りながらも、最後は笑って許してくれることを嘉国は知っている。
今回だって、お調子者の嘉国が他の友人と一緒になって、浩一を冗談半分にからかった。
それで気を悪くした浩一が何も言わず教室を出て帰路につき、それを慌てて嘉国が追ったのだ。
いつもであれば、嘉国が追いかけて謝って、それで問題は解決する。
しかし虫の居所が悪かったらしい浩一は、教室を出てから嘉国と目を合わせるどころか、振り向きもせず、ただひたすらに灰色の街を一人突き進んでいる。
「(なんだよ)」
呼びかけを無視されて、声をかける勇気がだんだんと無くなってしまう。
いつもは、嘉国の「なぁ」で浩一が振り返り、ついで「ごめん」と言えば、それで済む。
それが今日はどうしたことだろう。
彼の隣に並ぶことも許されず、黒い背中から数歩離れたところをトボトボと歩くしかない自分がいやに情けなくて嘉国は俯いた。
灰色のコンクリートに、浩一の黒い影がゆれる。
「(無視すんな。)」
ひどく薄い浩一の影を嘉国は踏みつけながら歩く。
「…」
目頭が熱くなり、薄い影が風にゆれて、嘉国の眼球の奥にじわりと滲んだ。
鈍色の雲。灰色の町。
このまま自分がこの寂しい景色と同化してしまうような気がする、と浩一は思った。
甘えられるのは嫌いではない。
大事な人間に甘えられるのならば尚更、と浩一は思う。
「(でもな、ものには限度ってもんがある。)」
ゆるい放物線を描いて伸びる川沿に敷かれたアスファルトを睨みつけながら、浩一は口元を歪めた。
それもこれも、嘉国が我儘を通すことで浩一の気持ちを測ろうとすることが気に入らない。
その、ひどく子供じみた行為が、浩一自身を傷つけることを薄々分かっていながらも、嘉国はやり方を変えることはない。
悪意があるわけでは無いのは分かっている、むしろその逆だ。
だが。
「(目に余るんだよ、お前のやり方は。)」
腹立たしさに、浩一は眉間にシワを寄せた。
クラスメイトの前で自分を馬鹿にして、笑いものにした嘉国の意地悪な顔を思い出し、浩一は腸が煮えくり返る。
感情的になることが少ない浩一がここまで怒れば、嘉国がうろたえるのは当たり前のことだった。
こんな風に煮え湯を飲まされたのは今に始まったことではない。
だが互いに相手が特別であるという意識があるのは確かだ。
嘉国だから許すことも、嘉国だから我慢できることも多くある。
だが、だからこそ…嘉国だから許せないことだってあるのだ。
ひどく自尊心を傷つけられ、浩一は衝動のままに教室を出た。
すぐに嘉国が追いかけてきたのに気がついたが、振り返る気はサラサラなかった。
嘉国の許しを期待した顔を見たくなかった。
「(それに)」
許しを得たあとの、心底ホッとした嘉国の顔が浩一をさらに苛立たせた。
自分の顔色をうかがって、気持ちを確認しているのだ。
「(胸糞悪いんだよ。)」
そんなことをしなくても、本当にたった…たった一言で済むのに。
自分はそれにいつだって応えてやれるのに。
だからもう、甘やかすのは止めにした。
今日という今日は絶対に許さない。
無機質な街を突き進む。
絶対に振り向かない、と心に決めて。
背中に聞こえる小さな声を完全に無視して、浩一は歩き続ける。
ごう、と。
ことさらに強い風がふいた。
長く続く土手も、もうあと少し。
川を跨いだ鉄橋を境に十字路があり、そこが二人の分かれ道となっている。
浩一は土手の十字路から右に折れて、長く続く高架線の下を南下する。
嘉国は浩一とは反対方向に帰る。
まもなくその分かれ道に着いてしまう。
浩一の足どりはとてもはやい。
止まる気配はない。
嘉国はぼうぜんとして立ち止った。
「(…なあ…帰んのか?)」
「(…きょうは、もう)」
謝ることもできないし、話すこともできないんだろうか。
鈍色だった空はいつのまにかその色を濃くして、すべてを真っ黒に包み込もうとしていた。
「(もう話せないのか…?メールもできない?夜、電話でくだらない話もできない?おやすみも言えない…?)」
十字路に浩一が差し掛かろうとしている。
「(また明日っ、て言って貰えない…?)」
タタン、タタンと電車が近づく音がする。
「(浩一、ひろかず。)」
振り返らない浩一の背中が闇に溶け込むように小さくなる。
嘉国の視界がゆがんだ。目が痛いほど熱くなった。きゅう、と喉がなった。
なあ、おれ、こんなふうにしたかったんじゃないんだ。
ただ確かめたかっただけなんだよ。
お前、いろんな事にいつも無関心だから。
不安なんだよ。
なぁ、ひろかず、
ごめん、許して、
おれが悪かったから
無視しないで
ごめん、
「ごめんよお」
そのとき、浩一には、それが警笛のように聞こえた。
高架線から近づいた特急電車と、冷気を含んだ突風がどん、と音を立てるほど強く、この薄暗い灰色の街を突き抜けたのである。
川の南北をつなぐ頑丈な鉄橋が一瞬揺れたのではないかと思う程のすさまじい風と、音。
吹きざらしの土手よりも高架線の近くにいた浩一でさえ、その突風に立ち止って耐えるのに精いっぱいだった。
その中で、鮮烈に、彼の耳の中に鮮烈な音が聞こえたのだ。
それが、嘉国の「言葉」を聞こうとしなかった浩一が、そのまるで甲高い口笛のような音に思わず振り向いたことが実に不思議であった。
そこには、灰色の街の中には不自然なほど鮮やかな赤色が宙を舞っていた。
それが嘉国のマフラーだと気がつくのに、そう時間はかからなかった。