君の涙とわがままと
そう言いながら男は康高の承諾もとらず、当たり前のように息子の隣へ「よいしょ」と腰をかけると、眼鏡越しに涼しい顔で庭を眺めた。
穏やかで物腰が低く、線の細い優しい男だった。
「喧嘩をしたそうだね。」
見た目よりも若い声が耳に届き、康高はそれ来た、とため息をつく。
「その様子だと、仲直りはまだかい。」
はは、と笑う父に、康高は不愉快そうに眉を潜めながら、隣の男を横目だけで睨む。
藤四郎は飄々としていて、康高の視線に気がつくと、にこ、と笑った。
「原因は、君だろう。」
容赦無く核心をついたその言葉に、康高は顔をゆがめた。俺じゃない、と反論しようとしたが、何故か喉につっかえて、言葉にはならない。
「そんなに手痛くされたのは、君がよっぽどひどい事を言ったんじゃないのかい。」
そう言って、藤四郎は康高の頬に貼られた絆創膏を突いた。それを煩わしそうに振り払い、康高はうるさい、と険を含んだ言い方で返す。
「もう、隆平とは一緒に居たくない、と本人に言っただけだ。」
息子の言葉を聞いて、おや、と父は目を丸くする。それから息子を覗き込むようにして康高を見詰めた。
康高はこの目が苦手だった。
幼い頃から何か悪さをしても、この瞳には全て見抜かれている様な気がして、いつもこちらから悪戯を明かして謝ってしまうのだ。
そして例に漏れず、藤四郎は康高が今一番聞きたくない言葉をぽつりと呟いた。
「驚いた。君は隆平君のことを好きだと思っていたが。別れを告げるほど嫌っていたのか。」
「…別に嫌いなわけじゃない。」
藤四郎は不思議そうに康高を眺めたが、もしかして、と呟く。
「松下学園の推薦を受けることと、何か関係があるのかな。」
藤四郎の勘の鋭さに康高は苦い顔をしながらも黙り込んで藤四郎から視線を外して正面を向いた。そしてしばらく黙り込んだ後、「そうかもな」と呟いた。
「もし松下学園に通うようになったら、三年は隆平と会わなくて済む。上手くいけば…それ以上も。」
疲れたような表情の康高を見ながら、藤四郎は黙って彼の言い分を聞いている。
「正直、推薦の話しを受けるかどうかは迷っていたけど受ける、と決めた途端、もう隆平に会わなくていいんだと思ったら、隆平と話せなくなった。これ以上は一緒に居られない、と思った。」
そう言って、康高は息を吐いた。
白い息が夜の闇に溶けるように消えていく。
暗い空には下弦の月がするどい光を放って、その鋭利さが、まるで今の自分を表しているようで、康高は目を逸らした。
「別に今に始まったことじゃ無いんだ。あいつを見ると苛々して、それがこういう形で破裂しただけだ。あいつと居ると疲れる。無理なんだ。これ以上は。」
だから、いいんだ、と康高は呟いた。そうして立ち上がり、それだけ、と康高は呟くと、その場から去ろうと踵を返した。
「なんだ。そういうことか。」
だれに言うわけでもなく呟いた藤四郎の声に引き止められるように、康高は立ち止まると、未だ濡れ縁に腰を下ろしたままの父を振り返る。
藤四郎は康高をちら、と見ると優しく笑った。
「君は変なところで大人なんだなぁ。」
「よっこいしょ」と言いながら立ち上がると、正面から康高の瞳を捕らえる。
「そのくせ、子供っぽい。」
「何が。」
「昔のえらーい人はな、康高。プライドを捨てろ、自分の気持ちに素直になれ、前を見ろ、わがままになれ、自分を愛し、人を愛せ、と…まぁこう言った。」
言われた康高はきょとんとする。その顔を見て、藤四郎は四十らしかぬ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「君はまだ若い。何もかも諦めるにはまだ少し早い。」
そうして、藤四郎は康高をすり抜けながら笑った。
去ってゆく父の背中を、康高は不思議な気持ちで眺めていた。
それから二ヶ月が経った。
本格化する受験対策の準備に追われ、勉強に追われる日々が続き、あれから康高と隆平は一言も交わすこと無く年の瀬を迎えようとしている。
時折、隆平が悲しそうな顔でこちらを見詰めてくることに康高は気がついていたが、その視線に応える事は無かった。
応える事が出来なかった。
大晦日、その日は雪が降っていた。
新年の15分前になり、見慣れた年越し番組を見ながら、康高はリビングでコタツにあたりながらぼんやりとテレビを眺めていた。
「あら、もうこんな時間ね。」
母の由利恵が時計を見て、パタパタと台所に急ぐ。
いい香りが漂ってきた。
その匂いに、おお、と感嘆の声を漏らした藤四郎が、康高のほうを見てニコニコと笑いかける。
「康高、そろそろ時間じゃないのかい?」
その言葉に怪訝な顔をした康高が父の顔を見たが、藤四郎は構わずに玄関の方をちらり、と見た。
「毎年、この時間に隆平君が来るだろう。」