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「あの日あの時あの二人」


その⑫ 九条と主婦。




「そこの少年!」

声は聞こえて居たが、まさか自分のことを呼んでいるとは、九条は夢にも思っていなかった。



それは授業をサボって食料調達にコンビニに行こうと玄関に向って居た矢先の事だった。
いつもなら誰かをパシらせる所なのだが、屋上の扉を開こうとした際、上機嫌な和仁の声が耳に入った。

嫌な予感がした九条は、扉を開け切らずに黙って和仁の声に耳を澄ませた。
すると何やら恐ろしげな提案を持ち掛けて屋上のメンバーに振っている事が分かり、九条は黙って屋上の扉を静かに閉めると、元来た道をうなだれながら戻った。
とにかくこれ以上巻き込まれたくない。

つい最近もジャンケン大会の罰ゲームと称して、見ず知らずの男に告白させられ、その上そいつと付き合う事になってしまったのだ。
これ以上厄介事を増やされては困る。

そうしてなるべく時間を稼げる様にゆっくりと行こうと下駄箱に向って居る時に「少年、少年」という声が聞こえたのだった。

それが自分の事を言って居るのだと気が付かなかったのは、その声が聞き慣れない声だったという事も有ったし、無意識的に「少年」というカテゴリーから自分を外していたからかも知れない。

だがそんな九条とは余所に、関係無いと思っていた声は、気が付くと直ぐ間近まで迫って来ていた。

「ちょっと!!そこの、髪の毛がまだらで中途半端に気合の入った少年!!」

「ぐっ!!」

背後からパタパタと聞こえた騒々しい足音が漸く止まったかと思うと、突如、学ランの襟元を掴まれて後ろにグイッと引かれ、九条は驚きに目を見開いた。
全く想定外の出来事に、少々後ろによろめくと「あらあらごめんなさい」と全く悪びれない謝罪が聞こえ、ムカッとした九条は最悪に機嫌の悪い顔で振り返った。

これが教師やウチの学校の生徒なら完璧に殴っていた処だったが、視界に入ったのは、自分よりも幾分か背が低い三十代後半位の女がキョトン、とした顔で九条を見上げていた。
恐らく生徒の母親なのだろう。スーツを着ているがごくごく平凡な主婦だった。
その姿を見て九条は思わず舌打ちをする。

こんな細っこい主婦に首根っこ捕まえられてよろけたなんて。
死んでも組の連中には見せられない姿だ。
そのままシカトを決め込もうと、九条は主婦に背中を向けて、再び玄関を目指そうと足を一歩踏み出そうとした。
だが、そんな九条の背中を見た主婦は「待たれい!!」と言いながら、また九条の学ランの襟元を力いっぱい引っ張り、その反動で九条の首が「ごき」と嫌な音を立てた。

「何すんだババァ!!!」

これには流石の九条も怒った。
ズキズキと痛む首筋を手で押さえながら主婦に怒鳴り散らすと、主婦はシー、と人差し指を立てて九条を制する。

「今授業中でしょ。静かに。」

「殴るぞ。」

九条はハラワタが煮えくり返る思いで苦虫を噛み潰した様な顔をした。だが、そんな九条には眼もくれず、彼女は鞄をごそごそ漁り始めると、一枚の紙を取り出した。

「悪いんだけど、おばさん迷子になっちゃったみたいでね。13時に先生と会う約束してるんだけど職員室が見付らないのよ。どこにあるか教えてくれない?」

「ハァ?」

「ええとね、悪いんだけど、おばさん迷子になっちゃったみたいでね」

「聞いた!!ナメてんのかクソババァ!!」

「あら嫌だ。ハァ、なんて言うから聞こえてないかと思ったじゃない。それで?職員室は、あっち?こっち?」

キョロキョロと見回す主婦に、九条は心底呆れ返って一つ溜息を付くと三度主婦に背中を向けた。付き合ってられるか、と頭をガリガリと掻きながら早足でその場を去ろうとする。今度襟元を掴まれたら問答無用でぶん殴ってやろうと思った。
しかし

「ちょっと、黙ったままじゃ分からないじゃないの。それとも男は背中で語るって言うの?おばさんには何も聞こえないわ!ねえ、そこの金髪に黒髪が混じったまだらの髪をした中途半端に気合の入った少年!黒か金髪かどっちかにしなさい!メッシュなんて今時流行らないわよ!ねぇ、神経太そうだけど意外と繊細そうな少年、職員室の場所を教えて~!」

「うるせぇババァ!!マジで殺すぞ!!」

主婦の言い分にいい加減耐えかねた九条はぐるん、と振り返ると物凄い剣幕で怒鳴った。
だがそんな九条に怯む事を知らない主婦は「よし!」と頷いた。

「分かったわ。あたしが死んだら何回殺しても良いから職員室の場所を教えてください。」

「ザケんじゃねぇ!!ババァ!!忙しいんだよ俺は!!」

完全におちょくられている、と分かった九条は怒り任せに近くにあったゴミ箱を盛大に蹴り飛ばした。
ゴミ箱から溢れたゴミが廊下に散乱したが、それは見ず、主婦はキョトンとした顔をして「まぁ。」と呟いた。

「あんた、忙しいの?」

こてん、と首を傾げた主婦に怪訝な顔をしながら九条は「忙しい」と繰り返した。

「あらやだ。そうなの?あらあらごめんなさい。」

「は?」

「いえね、授業時間にプラプラしてるからてっきり暇なんだと思ってたの。」

まさか忙しいなんて、と途端に申し訳無さそうな顔をする主婦。
その切り替わりように、今度は九条がキョトンとする番だったが、主婦は相変わらず「それなら仕方無いわね」と呟いて、九条を見据えた。

「ごめんなさいね!もしあんたの用事がデートで、あんたを好きな子を待たせてたら申し訳ないものね!」

そう言って笑った主婦を呆気に取られて見ていた九条は、少々決まり悪そうに主婦から目を逸らすと、そのまま主婦に背を向けて玄関に向かった。
後ろで「頑張れ!!少年!!」というなんとも迷惑な声援が聞こえ、九条はぐわっと顔を鬼の様に歪ませると「黙れ!!」と怒鳴ったのだった。





「…」

九条は黙ったまま玄関を出ると、校門に向かって歩き出した。
何かモヤモヤとして気持ち悪かったが構わずに歩を進める。

あの主婦が職員室に辿り着けなかったのは無理もない。
職員室は新館の二階だ。
だが主婦のいた場所は旧館の生徒用の玄関付近。
職員室に行くには新館の二階にある職員用玄関から入らなければそうそう見付らない。

「…」

アホなババァだと、と九条は鼻で笑う。
俺の何処が忙しそうなんだよ。

九条はガリガリと頭を掻きながらポケットに手を突っ込むとケータイを取り出した。
ふと、ディスプレイの表示を見るとすでに1時を10分も過ぎている。

「…」

完全に遅刻だな、ザマーミロ。
そう思いながら九条は財布を取り出そうとズボンのポケットに手を入れて、ピタリとその動きを止める。
それから盛大な溜息を吐いて悪態をついた。

財布は、屋上だ。



苛々としながら九条が玄関に入り、廊下に出ると、もう主婦の姿は見えなかった。
自力で探そうとウロついているんだろうか、と思ったが、思い出して九条は苦々しい顔をする。
気にする必要は無い。取り敢えず即行で財布を取りに行って…と算段して、九条はある物が目に入り、その足を止めた。

「…」

少し驚いたが、次にあー、くそ!!と言いながら九条は頭をガリガリと掻くと、踵を返す。



先ほど九条が蹴ったゴミ箱から零れて、ゴミだらけになっていた廊下が、すっかり元通りになっていたのである。






「そこのババァ!」

後ろから呼ばれて、主婦は「え?」と目を瞬かせながら振り返った。
そこには眉間に皺を寄せた髪の毛がまだらな少年の姿。
少々息が上がっている様子だが、どうかしたのだろうか。

「あら、さっきの少年。」

不思議そうな顔をした主婦が聞くと、九条は最高に不機嫌な顔をしながら睨み付ける様に主婦を一瞥すると、「そっちじゃねぇ」と言った。

「ん?」

「こっちの廊下を左に曲がって渡り廊下を通って新館に行くんだよ。そこから右に行けばすぐ着く。」

そう早口に言って、主婦の顔も見ず、九条は元来た道を戻ろうと踵を返した。
それを見送った主婦は、その背中をポカンとした顔で見届けたが、それが職員室の場所を示す言葉だと分かると、次の瞬間には盛大に笑い出しだ。
それから早足で逃げる様にその場を離れようとする九条に、小走りで追いつくと、主婦は九条の隣に並ぶと、にっこりと笑った。

「あんた、いい男だね!」

そう言って、九条の背中をバンバン、と叩いたが、九条は煩わしげに主婦を一瞥しただけで、彼女と目を合わせようともしなかった。
そんな様子に主婦は笑いながら彼を通り越して九条の指した廊下の角を左に曲がると「ありがとね!」と言い残してパタパタと騒々しく去って行った。



取り残された九条は苦虫を噛み潰した様な顔をしてから、叩かれた背中にジンジンと僅かな痛みを感じながら、廊下のジッと睨み付けると「うるせえ、クソが。」と零し、身を返すと、屋上へと続く階段を、一人ゆっくりと昇り始めたのだった。



おしまい

主婦は千葉家の母、佳織です。
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