旧サイト拍手お礼文

爽快な青のグラデーションに大きなソフトクリームが聳えている。

「(…晴天に入道雲とは、絵に描いたような夏の空だ)」

妙な感動を覚えて空を仰いだ男は、麦わら帽子の広いつばをそっと持ち上げ、額から流れ落ちた汗を首にかけていたタオルで拭った。


八月下旬。


千葉勇治は賑やかな中心街から離れた閑静な住宅街の細い路地を歩いている。
珍しく取れた二連休。
日頃の疲れを癒そうと、エアコンのきいた部屋でゴロゴロしていたところ、お使いと称され炎天下に下放り出されて早十数分。
手には妻から持たされた網入りの西瓜をひとつ持ち、大きな家が立ち並ぶ一等地の中でも、最奥にある一軒家を目指していた。
長い土塀に沿って歩くとやがて大きな門が現れる。
そこを軽く会釈してくぐると、すぐに姿を見せる竹林。濃い緑のトンネルから漏れる太陽の光が、奥へと続く石畳の道に点々と出来ている。

ざわざわと風が凪いで竹の葉が揺れる。
地面にできた光の模様も一緒になって揺らめくので面白い。
トンネルを抜けると明るい日差しの中、青い空と入道雲をバックにして、緑に囲まれた昔ながらの日本家屋が目に入った。

いつもながら、ノスタルジックな構えであるとつくづく思う。

「(ここだけ時間が止まってるみたいだ…)」

はて自分は、と勇治は自分の容姿を確認するように片手で撫でたが、オッサンはオッサンだった。
少しの坂道で息切れをするのがいい証拠である。
緑のトンネルから重厚な日本家屋に続く飛び石の上を歩き、玄関にたどり着いた。

「ごめん下さあい。」

ピンポーン、と軽快なチャイムが鳴ったのを確認して声をかけた。
いつもならすぐにパタパタという奥さんの足音とともに「はい、ただいま」という返事がかえってくるのだが、扉の奥からは物音ひとつしない。

「比企さあん」

もう一回ピンポーンとチャイムを押してみるが、やはり家の中の沈黙が破られることはない。

「留守かなあ…」

あごから滴る滴がぽた、と石畳に黒い点をつくる。

この年になるとハンカチというよりもタオルが手放せない。
汗が滝のように出るのは年のせいだろうか。
家を出る際に手にしたタオルには、可愛らしい白い猫がプリントされていた。
ピンクのタオルは、どう考えても40近くのオッサンが首に巻く代物ではなかったが、家に戻るのも面倒くさい。
帰って加齢臭の漂うタオルを目にしたら紗希が怒るだろうなぁ、と思いつつもそのまま家を出てきてしまった。

今や薄いピンクから濃いピンク色になったタオルで顔を拭いながら、勇治は玄関の左側に続く濡れ縁を覗きこんだ。
ノウゼンカズラの下に腰までの高さの小さな木の扉があり、そこから中庭へ入ることができるのだ。
勇治はキョロキョロと辺りを窺うと、鍵の掛かっていない扉を開ける。そして濡れ縁に沿って奥の方へ足を進めた。

手入れのされた庭が続く。
夏の盛りは過ぎたが、女郎花、瑠璃アザミ、かのこ百合、そして桔梗が美しく咲いている。

不思議と子供の頃から見覚えのある花は名前が出てくる。
盆が来ると父の実家の縁側に座り、庭に西瓜の種を飛ばしている横で祖母さんが頼んでもないのによく教えてくれた。

「(それからええと、なんだっけ。)」

以前来た時、奥さんに教えてもらったのに外国の花の名前はさっぱり覚えられず、頭からすっぽりと抜け落ちてしまった。
息子とどっちが多く花の名前を覚えられるか競争したのに、一週間でこのざまだ。
年だなぁ、とボヤき、花の名前に苦心しながら勇治は比企邸の奥へと向う。
裏は鬱蒼とした林。
青々とした緑がひんやりとした空気を運んできた。

ひぐらしがどこかで鳴いている。





「やっぱり」

覗きこんだ視線の先には、座敷に着物で寝転がった男の姿。
かけたままの眼鏡が少しずれている。
長い濡れ縁の最終地点。
奥まった六畳の奥座敷に、比企家の現当主である藤四朗の仕事部屋があった。

黒ずんだ文机、書きかけの原稿、積み上げられた書物、隙間の無い本棚、白熱灯の電球、昭和初期のアナログ時計、ラジオ、風鈴、うちわ、簾、蚊取り線香。
雨戸は開け放たれ、太陽の光が僅かに部屋の中に揺れている。
いまどきのハイテク機器の類は一切見受けられない、文明の進歩から取り残されたような部屋だ。

そんな部屋に、深い藍色の着物を着た親父が実に気持ちよさげに眠っている。

「比企さん」

ひょっこりと中を覗いた勇治が窓際から声をかける。
それでも尚、籐四朗は四十らしかぬ無邪気な寝顔を披露したまま、ぐうぐうと眠りの世界を散歩中だ。

「子どもかよ…」

勇治は呆れたように呟きながら仕方なく縁側まで回ると、緑色のサンダルを脱いで座敷に上がった。
それから眠っている男の傍まで近寄ると、持っていた西瓜をその頬にくっつけてみる。

その冷たさに、藤四朗は「うっ」と一声あげたが、目を覚ますまでには至らず、またすぐに「ぐうぐう」と寝息をたてはじめた。
勇治はひっひ、といたずらっぽく笑うと、縁側に座りなおし寛いだ様子で庭を眺めた。

りん、と風鈴が鳴り、風が入ってくる。

「ふう…」

汗ばんだ身体にひんやりと心地良い微風を受けて、勇治は静かに目を瞑る。
日常の喧騒から離れ、耳に聞こえるのは風が揺らす木々のざわめきと、風鈴の音色、そしてひぐらしの鳴き声。

勇治は薄目を開けて、深く息を吐き出した。

もう間も無くしたら奥さんが帰って来るはずだ、そしたら西瓜を切ってもらおう、と考えながら、ピンクのタオルで顔を拭うと、心地良い風に肌を撫でられる。
そのまま麦わら帽子を取り、勇治は縁側の柱に寄りかかった。

そこから見える美しい庭。

女郎花、瑠璃アザミ、かのこ百合、そして桔梗。

(それから、ええと…)


なんだっけ。



教えて、ばあちゃん。








「あら。」

襖をあけて声をあげたのは比企家の奥方、由利恵である。
彼女は奥座敷の藤四郎の仕事場を見渡すと、すぐ後ろの廊下に向かって手招きをした。

「隆平ちゃん、紗希ちゃん、こっちよ。」

由利恵の声にバタバタと近づく足音。
そしてひょっこりと襖から顔を覗かせた三つの頭。

「見付かったの、由利恵さん…あ。」

「どうした、紗希…ってうわ、こんなとこに居やがったのかクソ親父!帰って来ないと思ったら!」

「お前そっくりだな…。呑気な所が。」

「おれ、こんなに図々しくねえよ!」

康高め、と不満げに見上げてくる幼馴染を無視して、彼は母親の方に顔をむけた。

「ま、呑気な所はうちの親父もさして変わらないようだがな。」

「そのようね。」

原稿の締め切りは明日までのはずだが、と呟いた康高に由利恵が笑う。

「もう少しだけ、このままにしておいてあげましょう。頂いた西瓜は冷やしておきましょうね。康高、氷水を用意して頂戴。」

「由利恵さん、西瓜おれが持ちます!」

隆平が床に置かれた西瓜を拾い上げると、由利恵は「ありがとう」と嬉しそうに笑った。

「立派な西瓜ね。」

「ばあちゃんが送ってくれたんだ、特別デカいやつ!」

「隆平、温くなるぞ。早く来い。」

康高の呼びかけに、うるせーな、と言いながら西瓜を抱えた隆平が楽しげに駆けてゆく。
それを見た紗希が、静かに襖へ手を掛けた由利恵に向かってクスクスと可笑しそうに笑った。

「男の人ってみんな子供みたい。」

「そうね。」

紗希の言葉にふふ、と笑みを零した由利恵は、六畳の座敷でぐっすりと無防備に寝こけている2人のあどけない寝顔を見た。

「でもきっと、そこが良いのね。」

おやすみなさい、と静かに襖が閉じられる。




りん、と風鈴だけが返事をした。





おしまい
14/21ページ