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『あの日あの時あの二人。』

その⑮ 勇治と籐四郎




ドタドタと足音が聞こえたと同時に、佳織の怒号が秋の夜長に響いた。

比企家の濡れ縁で毎年の恒例行事、月の宴が催されたのはもう二時間も前になる。

いつもは閑静な家の中を隆平がドタドタと走って逃げ回り、母である佳織が血眼になってその後を追っていた。発端は隆平の失言。月見団子をおいしいおいしいと言って頬張る佳織に、隆平が…。

「団子、満月、お母さん。」

「なによそれ。」

「まるいもの。」

と、つい漏らしたのだ。
以降、般若のような顔をした母親と涙目で逃げ惑う息子は家の中で飽き足らず、今では広い庭を駆け回っている。
それを見物しながら、康高、紗希、由利恵は奥の座敷で談笑し、比企家の主人である籐四郎と、客人の千葉勇治は満月に照らされた濡れ縁に残り、ちびちびと日本酒を舐めながら宴の余韻を楽しんでいた。

「すいません…毎度のことながらうちの息子…と嫁が…。」

静寂に響く隆平の叫び声と佳織の怒鳴り声に、風情がある秋虫の鳴き声はことごとく掻き消され、勇治は背を丸めて小さく呟いた。

「なに、構いませんよ。お隣とは敷地がずいぶんと離れているし、誰の迷惑にもならんでしょう。」

上機嫌で笑った籐四郎は空になった勇治のお猪口に酒を差した。
「あ、どうも」と礼を言った勇治は、同じように籐四郎に杯を返す。
それから互いにお猪口を軽く上げて笑うと、一気にあおった。



月見は比企家代々からの行事で、昔は近所の人を呼び、秋の収穫祭も兼ねて盛大に行われていたそうだが、ここ十数年は比企家だけでひっそりと続けている。
そこに千葉家が参加するようになってから、粛々とした比企家の月見は賑やかさを取り戻した。

「そういえば今年で10周年ですよ。千葉さんと月見をするのは。」

「え、もうそんなに経ちます?」

驚いた顔をした勇治に、籐四郎はススキの隣に盛られた里芋に手を伸ばした。

「なんともまあ…早いもんですね。」

「そうですね~、いや~そうか。もう10年も経つのか…そうだよなぁ、あの鼻たれの隆平が高校生だもんな…。」

感慨深げに勇治がしみじみと庭を駆け回る隆平を見ると、指についた塩を舐めとりながら藤四郎がうなずいた。

「そして10年前にギリギリで20代だった我々も、今年はとうとう40代デビューとなったわけですな。」

「ほんとですね。外見は大して変った感じしないけど…髪とかちょっと薄くなったのを見ると世の無常を感じるというか…切ないですよね。」

勇治が遠い目をすると、藤四郎は「そんな!」と声をあげた。

「悲観はいけません。オッサンという部類にすべからく仲間入りを果たした確固たる証拠ではありませんか。もっと胸を張りましょう、我々は階段をのぼるんですよ!」

息巻く藤四郎を横目に、勇治は乾いた笑いを絶やさない。

「あー、あとほら。枕が臭うとかいうやつ。うちの嫁さん容赦ねーから、最近起きぬけに『くさい』って真顔で言うんですよ。由利恵さんは絶対そんなこと無いじゃないですか。」

「そう思いますか。」

「思います。」

「…有無を言わさず毎日枕は日干し、カバーは洗濯コースです。」

「…」

「無言の圧力というやつですよ。」

里芋を口に放り、もごもごと口を動かした籐四郎を見ながら、勇治は「わかる!!」と力強く籐四郎の肩を掴んだ。

「うちなんか子供までが臭い親父呼ばわりですから!やれ靴が臭いだの、靴下が臭いだのって…!!特に紗希なんかは最近『お父さんのパンツと一緒に洗いたくない』ってわざわざ別洗いにするし、『お父さんの後にお風呂入りたくない』って絶対前後しないようにするんですよ…!!!どっかの漫画やドラマで散々見てきた光景なのに、いざ体験するとむちゃくちゃ悲しいんですよね!!職場で思い出し泣きするくらい…!!」

「千葉さん、涙が」

「は、すみません…」

近くにあったティッシュを籐四郎がすすめると、勇治はハラハラと流れた涙を拭ったうえ、「ぶふー」と情けない音を出して鼻をかんだ。

「大体隆平なんかは、そういうおれの姿を見て腹抱えて笑うけど、おめーも30年後にはこうなるんだっつーの…。」

「そうだ、そうだ!」

「康高だって、あんな気取ってるけど30年後には若白髪になるんだっつの…」

「そうだ、そうだ!」

「ああ…小さい頃は良かったなー…。紗希も隆平もお風呂も一緒に入ってくれたし、沢山抱っこしてくれたし、『おとうさん、だいすき』って毎日言ってくれたのに…。」

勇治の言葉に籐四郎は声をあげて笑った。

「その台詞はなんだか去年も聞いた気がしますね。」

「子供の生意気な姿を見る度、かみさんの前で毎度ぼやいてますよ。」

「そうですねえ」と籐四郎は呟いた。


子供の成長は驚くほど早い。

実際、自分の老いを感じるよりも、日に日に大きくなる子供に驚嘆し、戸惑いながら毎日を過ごしている。
家族のために時間が経つのも忘れ一生懸命に働き、子供と接し、春夏秋冬一瞬も目を離さず、その成長を克明に脳裏に焼き付ける。
そうして、ふと鏡の中の老けこんだ自分を見つけ、親は驚くのだ。


でも、自分の時間を削られたとしても
それでも


「それでも、どんな姿になっても、子供は、かわいいもんですよねぇ…。」

籐四朗の眼鏡の奥の瞳が細められると、勇治も顔をくしゃ、と綻ばせて笑った。

「おれらの苦労を、あいつらもあと30年もすれば分かるんですかね。」

「そうそう。そして、こうやって月を見ながら、自分の子供の愚痴を、友人家族に呟くんですよ。」

「いやだなあ、おれ等その時はもうジジイですね。」

「歯が全部抜けてたりして。」

「髪の毛もなくなってね。」

「その頃までこうして、酒飲んで、子供のことで愚痴りあいたいですねぇ。」

「そうですねぇ。ヨボヨボになりながら、隣には同じくヨボヨボの妻がいてね。」

お互い笑いをかみ殺し、籐四郎と勇治は空になった杯をコツンとぶつけた。
丸い月がぽっかりと浮かぶ。団子や里芋はすっかりなくなり、女郎花は星のような花を床に散らして、ススキは涼やかに虫達と秋を奏でている。

そこに「ぐえ」と蛙が潰れるような声が聞こえ、庭に目をやった両人は、佳織に捕まって圧し掛かられた隆平が下敷きになっているのをみて、それは盛大に笑い転げたのだった。





30年後、僕はもう、君の傍にはいないと思うけれど。

遠いどこかで、君達と、君達の大事な人が幸せでありますように。

君達が、笑っていますように。









おまけ。



「でもなあ、紗希が大事な人を連れてきたら、とりあえず塩をまいて、最大限の嫌がらせをすることをここに誓います。」

「いけませんよ、千葉さん。大事な人を認めてもらえなくては紗希ちゃんが可哀想じゃありませんか。その時は呼んで下さい。」

「やですよ。仲介する気でしょ。」

「千葉さんの代わりに、私が塩を投げます。」

「あはははは!!そいつあいいや!!!」


おしまい。
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