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「あの日あの時あの二人」
その⑪ 和田と隆平。
満員電車、というのはあまり好き好んで乗りたいと思うものではない。
あの独特の息苦しさ、身動きの取れない身体、密着する他人の体温。そして猛烈な暑さ。
だが嫌だ嫌だとも言っていられない。
満員電車に乗りたいなんて思った事など隆平はついぞ無かったが、やむを得ない場合というのは生きて居れば必ずある。
まぁ早い話が寝坊をしたのだ。
それと言うのも、いつもなら起こしてくれる紗希が朝練のため、いつもよりずっと早く家を出て居たのが原因だったのだが、ハッキリ言って一番悪いのは自分だという事は寝汚い本人がよく知って居た。
いつもで有れば自転車を飛ばす所だが、本日は生憎の雨。
こうなると選ぶべき道は一つ。
徒歩三十分かかる学校まで駅二つ分で十分とかからない電車に乗る事。
そして意を決して乗り込んだ満員電車内。思った通りの熱気に隆平は顔をしかめる。
そうだ、本日は雨で湿度が高い。なんという不運。よりにもよってこんな日に満員電車に乗らなければならないなんて。
そう悲観的な考えのまま、落ち着いた場所のすぐ近くに銀髪の青年を見付けて、隆平はさらに顔を顰めてしまったのである。
後頭部しか見えないのだが、あの制服、あの長身、あの銀髪、あのピアス。
そしてこの時間帯この路線に乗っている生徒。
それらを全て総合すると、あの銀髪の青年は神代北工業高校の中でも悪名高い「あの人」である事は明白であった。
虎組の不良、和田宗一郎。
彼は北工の中でも五本の指に入る位有名な不良であったが、ひょんな事から隆平とは顔見知りなのだ。悪い人ではない。だが、不良。いくら顔見知りで悪い人では無いからと言って、有名な不良に気さくに挨拶が出来るほど、隆平は度胸のある男ではなかった。
なんということだ。
満員電車だけでも気が滅入ってしまうというのに、それに加えて知り合い(?)の不良が居るだなんて。どうしてこうも不運なんだろう、と隆平はガックリと肩を落とした。
苦手意識のあるものを二つ同時に体験しなければならないなんて、なんと不吉な朝なんだ。
そう、軽くネガティブ思考の陥った隆平は、取り合えずその銀髪を見てみない振りをしようと固く心に誓ったのである。
だが、不意にガタン、と車内が揺れて、隆平は思わず前につんのめってしまった。
それが何の因果か、身体が平均よりも少しだけ小さかった隆平はガタイの良いサラリーマンの間を擦り抜けて、件の人物の広い背中に、したたかに顔面をぶつけてしまったのだ。
「ぶえっ」
その間抜けな声が、朝の緊張感に包まれた車内へ響き渡り、倒れまいと無意識に彼の制服の裾を掴んだ時にはもう遅かった。
「あぁ?なにしてやがんだコラ」
機嫌の悪そうな声が頭上から降ってきて、視線が突き刺さる様に自分の頭に注がれたのが分かった。思わず怒られる、と一瞬身を竦めたが、上から降ってきたのは先ほどよりも柔らかな口調だった。
「なんだ、千葉か?」
聞き覚えのある声でそう言われた隆平はあ、と思う間も無く後ろに伸ばされた腕に腰を押されて、青年の横の隙間に押し込められたかと思うと、彼の正面に移動させられた。
そこは幾分かスペースがある場所で、先ほどよりも圧迫感が無く、息苦しさから開放されたようで、隆平は思わず溜息をつく。
「珍しいな。おめぇ電車通学だったか?」
再び声をかけられた隆平は、その声にハッとすると慌てて上を向いた。自分との身長差が20㎝程あるため、彼の顔を見るのは首が痛かったが、隆平はその顔を見て、やはり、と引きつった苦笑いを浮かべてしまった。
「お、おはようございます、和田先輩」
「おう」
ニッと笑った顔が悪びれなく、隆平は何だか申し訳無い気持ちになった。
「すいません、ぶつかって、わざとじゃなかったんですけど」
もごもごと口篭るように呟くと、和田は「良いって」と笑い掛けてくれる。それがとても清々しく、あっけらかんとしていたので、隆平は心が少し軽くなるが、和田はその清々しい笑顔のままとんでもないことを口走った。
「いつもこの時間帯を狙って喧嘩吹っかけてくる馬鹿が居るからよ、そういう輩だと思ったんだ。そういう奴等は早々にシメねぇと後がめんどくせぇからつい睨んじまった。わりぃな。ビビらせて。」
その言葉がさらに隆平をビビらせるとは気が付かない和田は「でもよ」と隆平を見る。
「おめぇいつも電車使ってねぇだろ。九条と帰るときも歩きだし。もしかして寝坊か?」
「は、はい。せ、先輩は早いんですねっ!」
和田の言葉に思い切り頷いて、緊張のせいで妙な事を口走った隆平に、和田は思わず苦笑した。
「ばっか。寝坊して電車に乗ってんだろおめぇは。あと一本遅れりゃ遅刻だろうが。それが何で早いんだよ。それとも、俺みてぇな不良がこんな時間に登校すんのは珍しいか?」
笑った和田に、隆平はしまった、と青褪める。不良は重役出勤という固定観念のままでの発言に、隆平はあたふたして「すみませんっ」と慌てて謝ったが、和田は隆平の頭をぐりぐりと撫でるだけで、特に怒りもしない。
「まぁ、世の中には授業を受けに学校に行く不良も居るって事だな」
そう言って悪戯っぽく笑った和田に、隆平は人は見かけによらない、とはこういう事を言うのだ、と思うのと同時に、凝り固まった概念で「不良」というものを捉えている自分が妙に恥ずかしかった。そして自分と同じ目的が学校に通っているのだという和田に少しだけだが親近感が湧いたのである。
つまりだ。
嫌だ嫌だと毛嫌いするものが、必ずしも自分にマイナスになるような事ばかりでは無い、という事を隆平はボンヤリと理解した。
だって、よくよく考えれば、満員電車は二人を遅刻することなく駅まで運んでくれるのだ。そして件の不良には意外な一面があり、しかも失言をしたにも関わらず、自分を人ごみから遮断してくれている。
ものは考えようだ。
嫌だなんて言ってごめんなさい、と心の中で和田と満員電車に謝罪をすると、車内が再び強く揺れて、謝る間も無く、隆平はまたもやその大きな身体に自分の全体重をかける事になった。
それに慌てた隆平は小声ですみませんワザとじゃないんです、不可抗力です、遠心力です、と懸命に言い訳を繰り返したが、そんな自分を片手でしっかりと受け止めて笑った和田と一緒に、何故だか電車にも笑われたような気がして、隆平は再び「ごめんなさい」と呟いたのだった。
おしまい