君の涙とわがままと

今まで隆平と話していた友人達が思わず声を潜め、教室に入ってきた康高へ遠慮がちに視線を送る。

康高はそれに全く気を留めた様子は無く、黙って席につくと慣れた手つきで参考書を捲り始めた。
隆平に視線を送る所か、あいさつもない。
重くなる空気の中、それを見兼ねた一人の友人が康高に近寄ると、思い切って声をかける。

「なぁ、困ってるよ、隆平」。

せめて理由くらい言ってやれよ、と諭す友人の顔をふ、と一瞥すると、康高は友人を通り越して、奥の席に座る隆平を見据えた。
その視線に撃ち抜かれたような気がして、隆平は身体を強張らせる。
そんな隆平から目を逸らした康高は、話しかけてきた友人に視線を戻すと静かに答えた。

「俺、忙しいから。」

あいつと話してる暇なんてないんだよ、と康高が返した途端、隆平が椅子を倒して立ち上がり、友人を押しのけて康高の前に立った。

「なんだよ、それ。」

隆平の声に教室中がシン、と静まり返った。
隆平の顔を見る康高の目はどこまでも冷たい。
その、見たことも無い康孝の顔に思わず泣きそうになるのを堪えて、隆平は続ける。

「なぁ、なんか気に障るような事したんなら謝るから、あからさまにおれの事避けんのやめてくれよ。」

頼むから、と続けた隆平に対して、康高は参考書のページを一枚捲りながら答えた。

「全部だ。」

「は?」

「お前の全部が気に障るんだよ。」

そう言って、またペラ、と無機質な音を立ててページを捲った。
その音がやけに耳について、隆平は掌が震えるのが分かった。
思い切り鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
いつも苦笑いしながら隆平のそばに居てくれた康高の面影は何処にも見当たらない。
縋る様な思いで康高を見詰めていた隆平に、康高がとどめをさすように口をひらいた。

「もう無理なんだ。お前を見てると苛々する。」


苛々とするのだ。


隆平が近くにいると、隆平の顔をみると、声を聞くと。
康高は心の底から湧き上がる衝動に耐え切れなくなってきていた。

幼い頃から、隆平の一番近くで、彼を見続けてきた。
幼い頃から何も出来なかった隆平。
幼い頃からすぐに泣く癖があった隆平。
何もできない癖に、色んなことに首を突っ込みたがる。
短気で喧嘩っ早いくせに弱っちい。
何の疑いもなく、自分の事を呼び、屈託なく笑う。


隆平、隆平。


なぁ、お前の事を思うと苛々が止まらなくなるんだ。


だから


「だから、もう俺に近づかないで欲しい。もうお前と話したくない。」

その感情は、驚くほど静かに、そして急激に康高の身体から溢れてしまった。

そうして、隆平の顔が今まで見たことが無いくらいに悲しく歪んで、あぁ、泣きそうだな、とぼんやりと思った。

瞬間、康高の頬に鈍い痛みが頬に走って、目の前がチカチカと明滅したかと思うと、そのまま冷たい床に身体を打ちつけられた。
その衝撃で眼鏡が床を滑っていくのが見えた。
隆平が倒れた康高に馬乗りになり、先ほどと同じ様に右腕を振り上げるのを、まるでスローモーションのように、ゆっくりと康高の目に映る。

きゃあ!と女子の鋭い悲鳴が上がった。

クラスは騒然となり、有無を言わさず康高を殴り続ける隆平が、数人によって取り押さえられるのを、康高はただ、ジッと眺めていた。

それから周りのクラスの生徒や、先生が何人も集まってきて、大変な騒ぎになってしまった。そして、その一連の騒動は、大事な中学三年生の時期に有るまじき行為として、校長の怒りを買い、危害を加えた隆平のみが一週間の停学処分を受けた。






その夜、隆平の両親が揃って比企家に挨拶に見えた。


玄関先から聞こえる隆平の両親の謝罪の言葉を耳にしながら、康高はぼんやりと、庭を眺めていた。


今日は月が明るくて綺麗だ。


こうして、毎年この濡れ縁で月見をするのが比企家の決まりごとだった。
最初は父と母と自分の三人で。
いつからか、隆平と、紗希と、二人の両親が一緒に月見をするようになった。
そして幼い双子は夜遅いから、と当たり前の様に泊まって行った。


「(そういえば、ついこの間まで、隆平は雨戸も上手く閉めることが出来なかった。)」


その度に泣きついてくるものだから、康高は毎年秋の夜長に不釣合いな怒声を近所中に響かせていた。

『閉まらないよぉ~やすたかぁあ。』

泣きべそをかく隆平の幼い顔を思い出す。
そういえば、あのときは、まだこんなに苛々とすることはなかった。
一体、何故。

『やすたか』

舌足らずで自分の名を呼ぶ声を思い出す。こうして、隆平を思うと心臓がきゅう、と締め付けられ、反射で涙が出そうになる。
なんだ、これは。
いつもの苛々とは違い、苦しいような胸の痛み。


『康高』


声変わりをして、はっきりと自分の名前を呼べるようになった隆平。
なにもできない子供のまま、いつでも自分を頼ってくるのが当たり前だと康高は思っていた。

康高はゆっくりと目を閉じた。

『やすたか』
『康高』




「康高」



一瞬どきり、として、康高は目を開いた。そこには藍色の着物を着た、線の細い中年の男性の姿。
その姿を見て、何故だか安心したのと、がっかりした妙な気持ちになり、それを振り払うかのように大きなため息をついた。

「なんだ、親父か。」

康高がそう言うと、穏やかな顔をした中年の男性は、困ったように微笑んだ。

「残念ながら、君の親父だ。」
2/5ページ