パラレル兄弟
一方隆平と言えば、この騒動の中、何が何だかさっぱりだった。
康高からこの知らない男に抱かかえられた時もポカンとしたまま、だが腕の中の紙袋だけは離さないようにしっかりと抱きかかえて、二人の攻防を見つめることしかできない。
それから、どうして自分はこんなところにいるのだろう、と小さな頭で必死に考える。
兄に会いに小学校へ行った。
だが兄はそこにはおらず、先生が家まで連れてきてくれた。
だが、家にもやはり兄は居なかった。
「にいちゃん」
大好きな兄の姿が頭にうかぶ。
どうしてどこに行っても会えないのだろうか。
自分がわるいのは分かっている。
兄を怒らせたのに、あやまらなかった。
兄は自分のことが嫌いで出て行ってしまったのだ。
「にいちゃん、」
そして今、この知らない大人と二人で、何が何だかわからない状況に追い込まれ、隆平の理解できる許容は、とうの昔に超えていた。
にいちゃん、こわいよ
もうわがままいわないから
いいこにするから
て、つないでくれなくていいから
にいちゃん、にいちゃん、
「にいぢゃ~~~~っ」
途端に、こみ上げてきたものが目や口から一斉に溢れて、隆平は近所中に響き渡るような大声で泣き出してしまった。
その声を聞きつけた大雅が、今や猛スピードでこちらに向かってきているとも知らず、突然泣き出した隆平に、先程まで争っていた大人二人はポカンとしてしまい、次にはみっとも無い位に慌ててしまった。
「ちょ、ちょちょちょ!!!ど、どーしたの!!わーわー!!よーしよし、いーこいーこ泣かないでー!!」
今や小さな怪獣の様に泣きじゃくる隆平を慌てて和仁があやす。
しかし隆平はまるで天をひっくり返したようにボロボロと大粒の涙を零して途切れ途切れに「にいちゃん」とうわ言のように繰り返し、和仁の言葉はまるで聞こえていないようだった。
「わーどーしよー!!ちょ、おにーさん、今まで何人も子供の相手してきたんでしょ!!こういう場合どーしたらいいの!?」
「誤解を招く言い方はやめて下さい。とりあえずその子をこっちに渡せ。」
「あ、うん、ってアブねー!!何誘導してんの!?」
康高の言葉に危うく隆平を渡してしまうところだった和仁はハッと気が付いて、ぎゃおぎゃおと泣きじゃくる隆平を抱きなおした。
それをみた康高がチッと舌打ちを零したのを和仁は聞き逃さなかった。
正直言って、和仁のような男が子供の扱いにひどく狼狽しているのは滑稽意外の何者でもない。
だが、狼狽しつつも隆平を手放す気配の無い和仁に、康高は苦い顔をする。
(こんな状況でも隙を見せないなんて。)
全く何者なんだこいつは、と顔を顰めたその目線の先に、康高はある人物を見た。
和仁の真っ直ぐ後ろから、何かとてつもないスピードで近づいて来る影がある。
「あ」
それが、10歳らしかぬ鬼のような形相をした大雅であると気がついた時には、彼はもう和仁の間近まで迫っていた。
曲がり角の先で大雅が目にしたのは、赤髪の見知らぬ男が、自分の弟を抱きかかえていた光景であった。
それを見た瞬間、大雅の脳内で何かが爆発したかと思うと、もう彼の頭の中は弟を救出する事で頭がいっぱいになっていた。
男が何者かなんて考えもしなかった。
ただ、男に抱きかかえられている弟が、泣きじゃくって自分の名を呼んでいるだけで、大雅には十分だった。
弟が助けを求めている。
そしたら、兄貴がやることはただひとつ。
和仁との距離を縮め、大雅は走りながら吼えるように叫んだ。
「おれの弟にっっ」
地面を蹴り、大雅は飛んだ。
「触ってんじゃ、ねぇーーーーーー!!!!」
「へ?」
大雅の咆哮と同時に彼の強烈なとび蹴りが、振り返った和仁の顔に見事に決まり、和仁は「あれ?」という顔をしながら地面に倒れた。
その際、咄嗟に抱えていた隆平を、和仁が庇う様にしたのを見た康高が「ん?」と零した。
一方大雅は、着地に失敗して地面に転がり、あちこちを負傷したが、それに構わず急いで立ち上がると、和仁の腕の中から未だしゃっくりを上げている隆平を救うべく、懸命に隆平の腕を引っ張った。
救出された隆平は、大雅の顔を見るなり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をまたくしゃ、と歪ませて、先程と比べ物にならないくらい大きな声を立てて泣き出した。
肩で息をした大雅は隆平がどこも怪我をしていないのを確かめると、ホッとしたように溜息を吐いた。
だが、すぐに顔を歪めて、きつい眼差しで隆平を睨みつけた。
「この…おおばかやろうっ!!!!」
泣き声を凌ぐほどの大声に、隆平がぴたりと泣き止む。
隆平の驚いた顔を見ながら、大雅は弟に負けないくらい顔を真っ赤にして、隆平を睨み、拳を固く握り締めていた。
「一人で外に出てばかじゃねぇの!!!どんだけ心配したと思ってんだよ!!!」
大雅の言葉にショックを受けたような顔をして、隆平はまたしゃっくりを繰り返して俯いた。
それから消え入るような声で「ごめんなさい」と呟いた。
和仁を引きずる様にして二人から遠ざけていた康高は、彼の持ち物を物色していた手を止め、大雅の言葉に耳を傾けた。
康高が大雅を咎めなかったのは、大雅が今にも泣きそうだったからかもしれない。
あんなことを言っている大雅が、本当は誰よりも泣きたくて、怖かったのだと分かる。
「に、にいちゃ、お、おこってる。」
「怒ってるよ!!当たり前だろ!!」
それを聞いた隆平が益々しゃっくりを激しくして泣きながら途切れ途切れに声を発した。
「お、おれ、にいちゃ、さが、して、」
「…」
「に、にいちゃんが、おれのこと、おこって、たから」
ひっく、ひっくとしゃっくりを繰り返し、隆平はずっと大事に持っていた紙袋をおずおずと大雅に手渡した。
それはこの騒動でぐちゃぐちゃになっていたが、隆平が大事に抱えていたため、破れることだけは免れていた。
大雅はそれを黙って受け取ると、少々戸惑いがちにその袋を開けた。
「…あ」
そこには、朝、隆平がヨダレまみれにしたTシャツが入っていた。
なぜか少し湿って、よれよれとしていたが、そこからふわん、と石鹸の香りがする。
まさか、と隆平を見ると隆平はボロボロと涙を零しながら搾り出すように言ったのである。
「ちゃんと、あらった」
洗濯を知らない隆平にできたのは、石鹸を使って洗面所で洗い、ドライヤーで乾かす事くらいだった。
宗一郎の見た不可解な部屋の散らかりようは、このようにしてできあがった。
そういえば、このTシャツをヨダレまみれにされて、朝ひどく隆平を罵った事を大雅は思い出した。
隆平は、このTシャツを汚したから、大雅が自分を置いて出て行ったのだと思い込んでいたらしい。
それを綺麗にして、自分のもとへ持ってきたというのだろうか、と大雅はTシャツを持つ手が震えた。
嫌われたと思ったのだ。
それを綺麗にして、
大雅に見せて、隆平は。
「だから、にいちゃ」
隆平の目は、もうウサギのように真っ赤で。
小さな肩を震えわせて、大きな瞳からぼろ、と涙を零した。
「おれのこと、きらいに、なんないで。」
そう言われた瞬間、目がカーッと燃えるように熱くなって、大雅は俯いた。
隆平の顔が見れなかった。
自分の軽率さを心の底から恥じた。
全ての原因は自分にあるのに、この弟はそれが自分の非であると心労し、彼なりに最善の策をとろうとした。
それなのに大雅は自分の非を棚に上げ、頭ごなしに弟を叱ったのだ。
幼い弟を家に一人きりで置いた自分の不甲斐無さと、彼の悲しい思いに胸を痛め、大雅は猛省した。
それからTシャツを掌から滑り落とすと、たまらない気持ちで、目の前の隆平をそっと抱き寄せた。
自分の目から溢れ出したものが隆平のスモッグに染みていく。
この幼い弟の体温がこれほど心を落ち着かせるものなのだと、大雅はしばらく忘れていたように思う。
この少年が生まれたとき、一番喜んだのは自分だ。
世界でたった一人の大切な弟。
嫌いになんか、なるわけがない。
声が震えた。
「ばかやろう」
そう言って、大雅はぎゅうと隆平を抱き締めた。
「…ごめん」
消え入りそうな声で言った大雅の言葉に答えるように、抱き締めた隆平が、小さな手で自分の腕をしっかりと掴むのが分かり、大雅は声を押し殺して泣いた。