パラレル兄弟








風が冷たい。

今頃ちいさな弟はどこで何をしているんだろう。
まっすぐ前を見据えたはずなのに、ひどく視界が歪むのは、不安が瞳から滲んでくるからだ。
それを乱暴にぬぐって、大雅は風を切るようにして我が家へと急いだ。

変質者の話が頭から離れない。
大雅には漠然としたイメージしかないが、それは「こわいもの」であることは間違いなかったし、「それ」に捕まったら大変なことになるというのもわかった。

だが、捕まった子どもに何が待ち受けているのか、というのは大雅はわからない。
「こわいもの」に会えば、「こわいこと」になる。

それはまるで暗い闇の中にすっぽりと飲み込まれてしまうような恐怖。
大雅のあたまの中で、隆平が泣きながら町をさまよっている姿が浮かぶ。

康高の言葉が蘇った。


『それで、ほんとに消えちゃったらどうするんだ、お前。』


その言葉と同時に、隆平が真っ暗闇の中に溶けてしまい、大雅あまりの恐怖にザーッと体中の血の気が一気に引いたような感覚に襲われた。

(あいつが消えたらどうしよう。)

また歪み出す視界に大雅はもう、何を投げ捨てても良いから弟を返してくれ、と必死に繰り返した。

(迎えもいく、文句を言わない、面倒もきちんとみる、遊ぶのもがまんする。)




あいつのためなら、なんだってするから。




と、その時だった。

静かな住宅街に、何か叫び声のようなものが聞こえた。
大雅はハッとなって顔を上げる。
今、なにか、と目を見開いて、耳をすませた。
もう2~3分も歩けば家に着く。兄からは家に戻れと言われていたが、まさか、という思いで大雅は立ち止まり、全神経を耳に集中させてその声が聞こえるのを待った。
そして再び聞こえた声は、確かに「にいちゃん」と叫んでいた。

大雅は迷うことなく駆け出した。



それはもう、闇をも裂く勢いだった。








話は少しだけ遡る。

大雅が叫び声に気がつくよりも5分ほど前、和田家の前では一人の幼児を巡って、二人の教師が対峙していた。

幼児を狙った変質者。

図らずも初対面の和仁と康高は双方が同じ考えに及んでいた。

だが、いきなり強行に出るわけにも行かない。なにかの勘違いという事も考えて、もう少し腹の探り合いをした方が良いと判断した和仁は、笑顔を崩さないまま、康高に問いかけた。

「その子、おたくの子?それとも親戚?っつーか、知り合い?」

「…どれも違いますが、わけあって保護しています。あんたは?この子の知り合いですか。」

「いーや、違うけど。」

だが、当たらずも遠からずと和仁はこっそりと思った。少年とは直接の知り合いではないが、少年の兄の知り合いだ。少なくとも目の前の男よりは接点がある、と自負していた。

人は見掛けに寄らない、と聞いたのはいつの事だったか。
こんな真面目そうな奴に限って何するかわかんねぇからなぁ、と和仁は知り合いの真面目な公務員を思い出す。お堅い職業にも関わらず、彼は重度のロリコンだった。

こいつもかなり怪しい、と和仁が康高を見る目は完全に黒いものを見る目付きだった。

だがそれは康高も同様だ。
この男が自分と同じ立場の人間であることなどは見当もついていなかったし、はなから念頭にも無かった。
第一、こんな派手でフラフラとした男を誰も教育関係者だと思うはずがない。
康高の頭の中には漠然と夜の町の住人という勝手な認識が植え付けられていた。
まさかこのテの男が幼児に、しかも少年に興味を持つとは正直おぞましい。
康高は隆平を抱える腕に力を込める。

「用が無いのならお引取り願えますか。近頃は変質者がこの辺りをうろついているらしいので、この子を早く安全な場所に移さなければならないんですよ。」

「そうですよねぇ。悪質な犯罪者の手の届かない所へその子を避難させるってのは賛成。でもそれでどうしてその子を家から連れ出す必要があるのか教えて貰えるかなー。」

「あんたに教える必要性があるかの、逆に教えてほしい。」

和仁の言葉に冷静に返答した康高は、彼を見もせず、車のドアを開けようとした。
この男から少しでも安全な場所へ、と思っての事だった。

「あー、ちょっと待ったっ」

そう言いつつ和仁が俊敏な動きで康高の手を制した。
その隙のない動きに康高はぎょっとする。
目の前の男は軽薄な雰囲気から一変して、容易く康高の間合に入ると、その柔和な顔から想像もできない強さでドアに伸ばした手を制した。
そして康高が彼から逃れる暇もなく、脇からにゅっ、と腕を伸ばして、あっと言う間に小さな隆平を掠め取っていってしまった。

「わっ」

「りゅうへい!!」

驚いた隆平が目をまんまるにしたまま和仁の腕の中にすっぽりと収まると、和仁は足取り軽く康高からサッと身を引いた。
それに焦った康高が勢い良く和仁に飛び掛ったが、和仁は隆平を抱えながら器用にひらりと身を返すと、康高の伸ばされた腕を上から叩き落した。

「!!」

「おにーさん、この子の親戚でも知り合いでもねーのに、車に押し込んじゃうってのは感心しねぇなぁ。この子にとって安全なのは家にいることだと思うけどねぇ?」

「家には今誰も居ない、その子は一人だ。」

康高は和仁を睨むようにしてじりじりと間合を詰める。
康高の言葉を聞いた和仁は隆平を抱えたまま奇妙な顔をした。

(この子が一人?和田チャンが帰っているはずじゃ…?)

怪訝な顔をして和田と表札のある家を見る。
玄関には灯りが付いている。だがこの喧騒の中、家から誰か出てくる気配も無い。

(オレよりよっぽど早く帰って一体何してんの、あの子。)

一瞬顔を顰めてしまったが、今は目の前の男をどうするかが問題だ。
いくら性格の悪い和仁といえど、こんな小さな子が身元の知れない男の車に押し込まれそうになっているのを黙って見ているわけにはいかなかった。
そう思っているうちに、目の前の青年の顔が険しくなったのを、和仁は見逃さなかった。
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