パラレル兄弟


狭い住宅街に一台の車が滑り込んで来て、とある家の前で止まった。
表札には「和田」の文字。
以前大雅の家庭訪問で来たことがあったが、きちんと覚えていた自分を、康高は密かに賛辞した。

ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを下ろした康高は、玄関に灯りの着いた家を横目で見ると、助手席にちょこん、と収まった隆平を見た。

「ここだよな。」

「うん。」

小さいながらしっかりとシートベルトを締めた隆平に問うと、彼は見慣れた家を仰いで小さく頷く。
その顔がどこと無く冴えないのは、小学校で兄に会えなかったことへの失望の大きさを表していた。だが、かと言ってあのまま小学校にいても、大雅が来る可能性が低いのは言うまでもない。

むずかる隆平をあやしながら、「家に兄ちゃんが帰っているかも知れないぞ」と言って聞かせ、ようやく家に帰る事を幼い隆平に認めさせるのは随分と根気のいる作業だった。

それほど兄に会いたかったのか、と少々可哀想に思ったが、如何せん、家から黙って出てきた小さな子供をいつまでも連れまわすわけにもいかない。

しかも、家に誰もいない上に、隆平は玄関の鍵を持っていなかったため、家の裏の窓から出てきたというのだ。

外出時は鍵をかけること。
宗一郎が大雅に言い聞かせていたのを思い出した隆平は、一度玄関から出たものの、思い留まって戻り、施錠をしたという。
しかし、裏の窓の鍵が開いているんじゃあな、と康高は苦笑しながら隆平のシートベルトを外すと、彼を抱きかかえて車の外に出た。

隆平を抱える際に、カサ、と音がしてそちらを見ると、隆平の抱えた紙袋の音だった。
そういえば会った時からずっと持っているが、一体何が入っているのだろう、と康高は首を捻る。
肌身離さず、という言葉の通り、隆平は紙袋をまるで宝物のように大事に抱えていた。
そして、康高に抱っこされる際も、片手は康高のコートを掴むが、もう片方は、しっかりと紙袋は抱えて離さない。
余程大事なものが入っているに違いない、と康高は思ったが、特に隆平に言及するような事はなかった。
それよりも今は、もし家に誰も居なかったら、ということの方が重要だった。

「こういう時はやはり警察か…。」

呟いた康高に隆平が首を傾げて見せたが、康高はそれに柔らかく笑みを返しただけだった。

玄関のインターホンを鳴らす。

ピンポーン、と聞き覚えのあるチャイムが中に響いたのが聞こえたが、中から人の気配はしない。ピンポーン、ともう一回鳴らしてみるが、やはり同じだった。

「誰も居ない、か。」

康高が溜息を吐くと、自分にしがみ付いていた小さな手が、ぎゅう、と康高の暗い色のコートを握り締めたのが分かった。
康高が思わず隆平の顔を覗きこむと、小さな目にいっぱいの涙が溜まっている。
そんな隆平の頭を撫でながら、康高は「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と優しく言って聞かせた。

しかし隆平の落胆は激しい。

この暗い道のりを、果敢にも一人で辿ってこれたのも、小学校に兄がいると信じて疑わなかったからだ。

康高は隆平をあやしながら、彼をどう元気付けるべきか考えた。
しかし、時間は刻々と過ぎてゆく。康高にもまだ学校に戻ってやるべき仕事が残されている。
この少年を一人にするのは気が引けたが、仕方無い、と康高は苦心の末、彼を近くの交番に預ける事を決断した。
そして、とうとうボロボロと涙を零し始めた隆平をしっかりと抱えたまま、康高は玄関の前を後にしようと踵を返した。

そこへ、ある一人の青年が康高の車が来た反対方向から和田家を目指してやってきた。

「おやぁ?」

小さな子供を抱きかかえた康高を見て、思わず首を傾げたのは宗一郎の高校の教師、和仁だ。

彼が図らずも徒歩で和田家に向かってきたのは、和田家の前方に停車した車を見付けたためであった。
住宅街の狭い路地は、車がやっと二台すれ違えるか、というもので、近くに二台並んだのでは、他の車の迷惑になってしまう。
そのため和仁は康高の車の50メートルほど手前で車を止めて、そこから歩き始めたのだ。

和仁が宗一郎の家を知っていたのは、この間の合コンの際、迎えに行った事があったからだ。
勿論今日、ここへ寄ろうと思ったのは東地区の見回りで近くまで来ていた事と、急遽合コンが明日に決まった事を知らせるついでに、家の中でお兄ちゃんをしている宗一郎をからかってやろうというほんの悪戯心からだった。

そして和田家に向かう最中に、かの家から青年が小さな男の子を抱えて出てくるを見付けたのである。


抱えられているのが宗一郎の弟である、というのはすぐに分かった。
彼のケータイを勝手に弄った際、ふざけて撮ったらしい、兄弟の写真を発見した覚えがある。

だが、あの青年は誰だろう。

「おとーさんにしちゃあ若いよねぇ。」

歩きながら、和仁は目を凝らして端整な顔に眼鏡をかけた青年を見た。
若いどころか、自分と幾分も違わない年頃に見え、和仁は首を傾げた。
宗一郎の話だと、今彼の家に両親は家に居ないはずだ。
近くに親戚もいない、と聞いたことがある。
では、あれは。


「誰だ…?」


そう思うのと同時に、その青年が家の脇に止まっていた車のドアに手を掛けたのを見て、和仁は思わず声をかけた。
ふ、と今自分がパトロールをしている理由を思い出したのだ。

「こんばんは。」

和仁がニコニコと笑いながら声を掛けると、青年は顔をこちらに向けて和仁の顔を見るなり、少々怪訝な顔をした。


「…こんばんは。」


康高は、唐突に声を掛けてきた青年に返事をした。
なんだこいつは、と康高は得体の知れない男に僅かな警戒心が沸き上がる。
いかにも軽薄そうな外見が理由の一つでもあったが、この男の視線が先ほどから自分の抱えた隆平に向いていることに気が付いて、妙な違和感を覚えた為だ。

当然、康高の頭の中にも、今巷を騒がせている変質者が頭に浮かんだ。
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