パラレル兄弟

その笑顔に康高は幾分かホッとして溜息をつく。
この年頃の子供を相手にする事はそうそうない。一つ質問や言い方を間違うだけで怯えられてしまうので、自分の生徒達に言い聞かせる時よりもずっと慎重でなければならなかった。

「ここには一人で来たのか?」

なるべくゆっくりと聞きやすい様に問うと、隆平は大儀そうにこっくりと頭を上下した。

「誰かに会いに来たのか?」

そう問うと、隆平は「うん」と答えてから少し暗い表情をする。

「あのね、にいちゃん、ここにいる?」

不安そうに康高を眺める隆平に、康高は兄ちゃんか、と呟いた。

隆平が小学校に来たことがあるのは今年の運動会と音楽会だった。
つい最近だった為、間が空いておらず、母親と徒歩で歩いた道のりを覚えていた。
運動会も音楽会も大雅を見に来たので、隆平は小学校に来れば大雅に会えると踏んだのだ。

「兄ちゃんに会いに来たのか。」

「うん。」

そうか、と康高は頷いてチラ、と時計を見た。
もう六時を過ぎている。外も暗い。こんな暗い道を一人で歩いてきたと言うのは並の勇気ではなかったはずだ。
彼の兄貴がこの小学校に通っている生徒だとしたら、名前を聞けば職員室の名簿録から住所が割れる。住所が分かれば車で送ってやれる。
この危ない時世に、こんなに小さな少年が一人でここまで無事に辿り着いたのは奇跡に近い。とてもじゃないが一人では返せなかった。

だが、と康高は少々怪訝な顔をしてしまう。
少なくともその「兄貴」とやらは今時分、家にいないのだろう。
今日全校生徒に変質者の事が伝えられたにも関わらず、こんな暗くなるまで外をほっつき歩いている生徒がいるという事実が発覚した瞬間だった。

結果こういう小さな子供が外へ出てしまう原因となったのだとしたら、彼等自身の危険を伴う一方で、こうして右も左も分からないような少年にまでその危険が及ぶ事になってしまう。
そんな軽率な生徒は名前が判明次第リンチだな、と康高は憤った思いを募らせた。
だが、その憤りを目の前の少年に表さず、康高は表面の柔らかい笑顔を崩すことは無い。
ここで隆平に怖がられて泣かれたのでは、それこそ自分が変質者と間違われかねない。

「分かった。じゃあ調べてやるからもう少し明るい所に行こう。おいで、りゅうへい。」

そう言って康高が手招きをすると、うん、と頷いた隆平が幼児独特の覚束無い足つきで歩いて来た。
その警戒心の無さに、康高はやれやれ、と苦笑して見せた。
自分と会う前に、この無邪気な少年が変質者と遭遇をしていたら、と思うとゾッとする。

康高は近づいて来た隆平の脇の下に手を差し込むとそのまま抱き上げた。
隆平は紙袋を抱き締めていて、康高は首を傾げたが、それより上着も着ていないその姿に眉を潜めた。

「おまえ、寒くないのか?」

「うん。」

力強く頷いた隆平に、康高はハァ、と溜息を吐く。この寒空の下、こんな薄着で来るなんて、と心底呆れた。
しかし隆平の体温は高い。子供は凄いな、と康高は感嘆したが流石に見た目が寒い、と自分のマフラーを外して隆平に巻いてやる。
それが少し大きかったのか、隆平は完全のマフラーに巻かれる形となり、それが妙に可愛らしくて康高は笑いを堪えながら「よし、」と隆平の頭をポン、と叩いた。

「じゃあ兄ちゃんを探そう。」

「うん。」

「で、その兄ちゃんの名前なんだが…」

そう言い掛けて、康高は、隆平のチューリップ型の名札に視線を落として、そのまま固まってしまった。
見覚えのある字面がそこに見えたのである。

「…りゅうへい。」

「はいっ。」

「りゅうへいの兄ちゃん、もしかして大雅って言わないか?」

康高が怪訝な顔をすると、隆平は途端に大きな目をキラキラとさせて、頭を一生懸命上下させた。
それから「すごい!!」やら「なんでしってるの!!」とひどく尊敬の眼差しを向けられたのだが、隆平の名札を見て一目瞭然だったのは言うまでも無かった。

「わだ りゅうへい」

和田、そして保育園の弟。
途端にあの尖がった性格をした少年の顔が思い出されて、康高は大きな溜息を吐いた。
職員室まで行く手間が省けた。

「あいつ…明日リンチだな。」

「りんちってなに?」

片腕で隆平を抱えたまま、もう片方の手で眉間を押さえた康高に、隆平はこてん、と首を傾げたのだった。










「ぶえっくしゅ!!!」

冷たい風を顔に受けて、大きなくしゃみが出てしまったが、大雅は走る事を止めなかった。
一刻も早く帰らなければいけない、という焦燥感に駆られ、ひどく息が上がっていたが止まれなかった。
こんな事なら自転車で来るんだった、と後悔したが遅い。

分かっている。
そんなに焦らなくてもきっと弟は何食わぬ顔で家のリビングでお気に入りのテレビを見ているに違いない。
でも、と大雅はゼェゼェと息を切らした。

どうしてもあの悲しそうな顔が頭から離れなかった。

はやく、はやく、と自分を急かしながら暗い住宅街の曲がり角を曲がる。
カーブを曲がったその瞬間、後ろで何やら固い音がして大雅はハッとして振り返った。
すると、数メートル後ろに、上着から滑り落ちたケータイが暗がりの中に見え、思わず大雅は舌打ちを零して、その足を止めた。

「クソッ。」

今まで走っていただけに、いきなり止まると、どっと汗が吹き出るのが分かる。
肩を上下させながら大雅は暗闇の中のケータイを見た。小走りで元来た道を戻る。
そういえば、隆平を迎えに行った時から電源を切っていて確認をしていなかった事に気が付く。
それから何かにハッと気が付いた大雅は慌ててケータイを拾い上げると電源を入れた。

これで家に電話をすれば隆平の安否を確認できる。
どうして気が付かなかったのか、と大雅は流れる汗を拭いならがケータイの電源が立ち上がるのを待った。
そして起動された瞬間、けたたましい音と共に、ケータイが振動し出したのである。
大雅はギョッとしながらディスプレイも確認せず、反射的に電話を取った。

「も、もしもし。」

少々戸惑いがちに電話に出ると、受話器から、凄まじい怒声が響いた。

『大雅ぁああああああああ!!!!!てめぇ今どこに居やがるぁあああ!!!』

その余りの音デカさに大雅はキーンとなる耳を押さえ、その聞きなれた声に、更に汗が吹き出た気がした。
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