事を慮ること深遠なれば


二十分後。
湯船には新品の仏像のようにピカピカになった東風と、長い闘いを終えてぐったりと風呂に沈み込む小五郎と通武の姿があった。

「信じられん…野良犬の方がまだマシだ…。」

げっそりとした顔をして肩まで湯に浸かった通武を横に、小五郎が両手で顔を覆う。

「クソが…何が悲しくて野郎を磨き上げなきゃならねぇんだ…。」

はぁーーと二人同時に深いため息をつく横で、体中の垢を根こそぎ落とされ、こざっぱりとした東風は小さな声で「どうも」と感謝の意を示し、申し訳程度に頭を下げた。
その様子に通武と小五郎はドッと疲れてしまい、視線すら寄越す元気もなく、消え入りそうな声で「どういたしまして…。」と、やっとの思いで返事をする。
以降は、双方とも発声する気力すらなく湯船に漂うのみとなった。


水面からゆらゆらと立ちのぼる湯気をボーっと眺めていた通武は体中をじんわりと包み込む温かさにとろりと瞼が落ち、肺の奥から自然と深い息が出る。数日間の疲労も相まって、この無重力空間に全身の疲れがほどけていくようだ。

「(いかん。)」

このまま寝てしまうのではないかと思い至り、通武はぼんやりとした思考のまま、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
ふと隣へ視線をやると、小五郎が湯船に肩まで浸かりながら、大きな浴槽のふちに頭を預けて目を閉じているのが見えた。
反対側の東風も同様に、口元まで湯船につかり、気持ちよさそうに目を閉じている。

寮の大浴場は広い。だが長期の休みに加え、真昼間から風呂に入る者は他に誰もおらず、その解放感は凄まじい。
静寂に包まれた貸し切りの風呂場で、たまに天井から湯船に雫が落ちる音を聞きながら、三者三様、思い思いにのびのびと手足を伸ばす。
通武は再び目を閉じた。

不意に、深夜味噌汁まみれになった三人で風呂へ来たことを思い出した。
確かあの時も入寮してから一度も風呂に入っていない東風を二人で湯船にぶち込んだ。味噌汁くさい身体を洗い、今のように三人並んで湯船に浸かった。
通武の脳裏には人のブツがどうだとか、包茎手術がどうだとか、つらつらとどうでもいいことを楽しげに延々と語る声が蘇る。そのくせ人の眼鏡の話にはまるで興味が無さそうに生返事する顔が思い出され、若干イラっとしてしまう。
だが直後に、優しく落ち着いた声色が通武の耳の奥に聞こえた気がした。








久坂くんは今日、どんなことがあった?










「あ゛~~~…。」

「!!!!」

唐突に隣から聞こえた小五郎の地を這うような呻き声に、通武は反射的に顔面を水面へダイブさせた。バシャーンと豪快な水飛沫をあげ水面に顔面を叩きつけた通武を横目に、その飛沫を顔面に浴びた両隣の同室者は双方胡乱な目をしている。

「…何やってんだてめぇ。」

「構うな。なんでもない。」

「分かりやすく動揺してんじゃねえよ。特許技術の眼鏡が泣いてるじゃねえか。」

「やかましい。」

ふん、と鼻を鳴らしながらご自慢の眼鏡の水滴を払った通武は、苦々しい顔で小五郎の方へ向き直る。

「大体貴様が突然変な声を出すからだろう。何なんだ、一体。」

通武に問い掛けられ、小五郎はうんざりとしたような顔をして、「変な声も出るわ」と眉間に皺を寄せた。

「着替えがねぇことを今思い出した。そこの汚物を苦労しながら磨き上げたのに、同じ服を着せんのか、と思ったら虚しさで変な声が出ただけだ。」

「あ゛~~~。」

「同じ声出てんじゃねえか。」

「タオルも無い…。」

「だろうな。」

小五郎が諦めたように鼻で笑うと、それと同時に東風の腹から「ぐう」となんとも言えない悲しい音がした。小五郎と通武が胡乱な目をしてその音の発信元へ視線をやると、東風はあせあせとしながら恥ずかしそうに頭を掻いている。

「…おい、今割とシビアな話をしてんだよ。」

「へへ…。」

「照れんな。腹立つわ。」

小五郎と東風のやり取りに毒気を抜かれた通武は再び深いため息をつくと、正面を向き直る。すると、小五郎が「そもそも」と続けた。

「なんで風呂なんだ。」

その言葉を聞き、「確かに」と通武も東風の方を見た。彼は二人分の視線を受けながらゆっくりと瞬きをすると、「“とっておき”を教えてもらったから。」と答えた。

「とっておき?」

小五郎が繰り返すと、東風は小さな子供のようにこくん、と頷いた。

「思い出して、再現する。」

東風の言葉に、通武と小五郎は思わず顔を見合わせた。小五郎は相変わらず訳が分からない、という顔をしていた。通武も心中では似たような事を考えていたが、東風の言葉を頭の中で反芻させ、己が理解できるよう落とし込む。

「奴が居た時を思い出して、その時の再現をする、ということか。」

うん、と東風が再び頷き、「居た時から、いなくなるまで。」と付け足した。そこまで聞いて小五郎がいかにも意地悪そうな顔をして朝笑った

「その行動に意味があるとは到底思えねぇな…。」

呆れたような表情をした小五郎に、東風の眉がかわいそうなほどハの字に下がる。それを見てか見ないでか。「ただ」と小五郎が続けた。

「残念ながら他にアテがあるわけでもねぇからな。死ぬほど面倒だが仕方ねぇ。」

「少しだけなら付き合ってやる」と続けられた小五郎の意外な言葉に、東風は勿論、通武も少し驚いたように目を丸くした。今まで横暴かつ手前勝手に振舞い、他者の意見を顧みることのなかった暴君がこの聞き分けの良さはどうしたことだろう。二人の視線に表情を変えることなく、小五郎は「で?」と東風へ問いかけた。

「ここで、あいつは何か大事な話でもしたのか?」

問われた東風は、その視線で明後日の方向を見ながら、ぽかんと口をあけた。一生懸命会話の内容を思い出しているらしい。それからしばらくして「…犬神家。」と口にした。

「犬神家?」

「悪い人に襲われていた男の子を助けて…、ゴミ捨て場で犬神家になって、AVをみつけたって言ってたよ。」

「…。」

東風の話の内容を聞いた小五郎は、彼から視線を外し、胡乱な目をして通武を見た。かなり省いているが、話の内容は確かにあっている。通武は神妙な面持ちで頷いた。それを見た小五郎が思案投首困惑の体というような表情をして「本当に意味があるんだろうな…。」と低い声で呟いた。

そこで再び「ぐううう」と東風の腹の音が鳴る。その音を聞いた小五郎と通武は二人揃って頭を抱えた。小五郎が東風を見ると、やはり彼は「へへ。」と表情乏しく、だが照れ臭そうに頭を掻いていた。その様子に通武は深く深くため息をついて少し考え込んでいたが、ややあって「やむを得ん。」と口にした。

「……一旦帰るか。部屋に。」

「…。」

東風や小五郎から返答は無かったが、それを同意と通武は受け取った。

「服を洗濯しなければならんし…。飯も…何か食わんとな。」

「あ゛~~~。」

「それから、高杉。貴様部屋に戻ったら爪を切れ。両手足、必ずだ。」

「それまで飯は食えんぞ。」と通武が続けると、東風が返答の代わりになんとも悲しげに、「あ゛~~~。」と声を漏らした。
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