事を慮ること深遠なれば
「…あ、ども。」
時刻が昼を回る頃。
ピンポーン、と鳴ったチャイムに対応したのはカオルだった。
ガチャリと玄関のドアを開ければ、そこには高杉東風の姿が。のっそりとドアの前に立っているいでたちは、さながら冬眠明けのクマのようだ。上背はあるがどこか申し訳なさそうに丸まった猫背が、柔らかい印象を与えている。
目が合わないように、左右に視線を動かす東風に軽く会釈されて、思わずきょとんとしているカオルを他所に、東風は奥に居る小五郎と通武を目の端で捉えると「お邪魔します」とカオルに一礼し、その敷居を跨いだ。
井上カオルと山縣辰也、そして吉田栄太の部屋のリビングには腕を組んで座り込み、ウンウンと何やら唸っている通武と、片手を頭に当てて同じく唸っている小五郎の姿があった。
二人とも東風の登場に気が付く様子は無く、件の白いケータイを取り囲んで唸り声を上げている。
「あの、」と声をかけてみるが、東風の恐ろしく小さな声は、二人の唸り声にかき消されてしまった。
代わりに、茶器を洗ってキッチンから出てきた吉田栄太が東風を見て「おや」と呟いた。
「なに?お迎え?」
そう尋ねられ、東風は口の中で「はい」と小さな返事をしたあと、両手を腹の前でもぞもぞとさせながら、唸っている二人に向かって遠慮がちに声をかけた。
「やくざさん、さむらいさん。」
そのあまりに小さな呼びかけに、二人が気付くはずもない。
栄太はその様子を見て呆れたような顔をして東風を見た。玄関を閉めたカオルがリビングにやってくると、「高杉くん、さっきはごめんな。」と東風の背中に声をかける。
「管理人さんの手伝いは済んだ?」
「はい。」
「そっか。お疲れさん。」
カオルはリビングのテーブルから椅子を引き、座るか?と東風に訊ねたが、彼はやんわりと首を横に振った。それに気を悪くした様子もなく、カオルは眉毛をハの字に下げて、ポリポリと頭を掻きながら苦笑して見せた。
「いや、さっきのケータイで色々分かると思って調べていたんだけど、謎が深まるばかりでさ。にっちもさっちも行かなくなって、今はこのざまだよ。」
東風に断られた椅子に自分で腰かけたカオルは、机に肘を付くと深いため息を吐いた。
その様子を見た東風は、次いで己のルームメイトへ目を向けた。
二人とも相変わらず小さな電子機器を囲んで頭を悩ませている。
「やくざさん、さむらいさん。」
再度二人に呼びかけるが、返事はない。やはり東風の声が小さすぎることもあるのだろう。東風はじっと彼らの背中を見ると、静かに二人へ近づいた。
「二人はさっきからずっとそんな感じなんだ。」
「…。」
小さなケータイ機器を前に、頭を抱えて唸る二人。東風はその小さな機械をじっと眺めて、黙り込んだ。
だが何を思ったのか次の瞬間、二人の後方からにゅっ、と腕を伸ばすと、唐突にそのケータイを拾い上げて、部屋の隅へ投げ捨てた。ケータイは弧を描いて、人の形状を保てなくなっていた山縣の上に、ゴト、と音と立てて落ちた。
それを見ていたカオルが「あ」と声をあげる間もなかった。
瞬間、物凄い速さで東風に木刀の切っ先と拳銃の銃口が向けられた。
「おいおいおい!」
驚きながらカオルが椅子から立ち上がるが、東風は身動き一つせず、獲物を己に突き付けてきた両名を交互に見据えた。どちらの顔にも目のクマがはっきりと見て取れる。目には明らかな疲労と焦りの色が濃く出ていた。その表情を見たカオルが、ごくりと喉を鳴らす。その向かいで一連の事に全く興味が無い様子の栄太は、緊張感がなく、可愛らしく「あふ」と小さな口を開けながら、あくびを零した。
当の東風は黙って二人の顔を見ると、少しだけ目を細める。
そしてシン、と静まり返った部屋で、とうとう東風の蚊の鳴くような声が二人の耳に届いた。
「やくざさん、さむらいさん。」
表情の険しい二人に対し、東風は表情筋を全く動かさず、言葉を続けた。
「おふろ、いきませんか。」
「「は…?」」
険しい表情のまま、件の二人が獲物を構えたまま、間抜けな声を出してしまったのは、実に仕方の無い事であった。
事を慮ること深遠なれば、則ち迂に近し
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