朝三暮四
どこまで知っているのか。
この言葉の意味するところは一体何だ。
通武は小五郎とカオルの会話をただ黙って聞いていたが、その内容がどんな意味を持つのか理解できずに居る。
彼に分かるのはただ、目まぐるしい速度で事態が急変しているということだけだ。
「(…何がどうなっている。)」
寝不足も祟ってか、思案を試みた通武は、視界がぐらりと揺れるような錯覚に陥った。
しかし彼が待ったをかける暇もなく、小五郎とカオルの会話の応酬は留まるところを知らない。
「その質問にはちょっと答えられません。」
「…何だと。」
「と、いうか…個人的に言いたくない。」
カオルの返答で小五郎の気配がにわかに殺気立つ。
それは通武やカオルには勿論、山縣にも伝わっているようだ。
しかし彼はあからさまに嫌な顔をして、小五郎に対抗するかのように睨み返した。
「大体知ってどうするんだ…。新しいルームメイト探してんだろ、あんたら。」
「ち、違う、それは!!ぶっ!!」
山縣の発言に通武が咄嗟に抗議しようと立ち上がったが、それは丸められた日経新聞により阻止される。
スパーン、という実に小気味よい音色の余韻の残しつつ、丸めた新聞を通武の顔から離した小五郎は、彼の顔を見もせずに低い声を出した。
「馬鹿野郎、タダでこっちの情報を垂れ流すんじゃねぇよ。」
ずれた眼鏡を直しながら頭上にハテナマークを飛ばす通武の横で、小五郎は丸めた新聞紙をパシパシと片方の掌に軽く叩きつけている。
それを何回か繰り返していたが、だんだんと大きくなる音は、まるで小五郎の心境を現しているようだ。
繰り返される無機質な音色に、空気が張り詰めてくるのが分かる。
「…てめぇらが隠して出し惜しんでる情報がどんなもんか知らねぇが…出し惜しむに値するほどのもんか見ものだな…」
「…」
「もし、万が一にもクソみてぇな内容で賭事の類をするつもりなら…覚悟しとけ。」
「悪いけど…クソみてぇな情報なら、クソみたいなお前らにはぴったりだと思うよ。」
「…」
双方の緊張感がより一層高まった。
その瞬間だった。
「皆さん、お茶はいかがですか。」
その場に全く不釣り合いな柔らかな口調に、一瞬ビシッとその場の空気が固まった。
「………」
山縣、通武、小五郎、カオルが、強張った顔のまま、声の方向に顔を向けると…そこには邪気の無い、たいへん朗らかな笑顔でほほ笑む、お釈迦様…もとい管理人、杉虎次郎の姿が。
そこに居た全員が、鳩が豆を喰らったような表情になった。
しかしその「原因」はニコニコとした表情で「はい、どうぞ」と、お盆に乗せた湯のみを1人1人の前に丁寧に置いてゆく。
そしてそれが終わると、どこからともなくハサミを持ちだし、近くの窓際に並んでいた小さな鉢植えを引き寄せ、新聞紙を下に敷くと、ちょきちょきと陽気に剪定を始めたのだ。
「皆さん朝から早いんですねえ。今日は天気が良いからか、早起きはいつもよりずっとお得に感じますね。」
一同は伸びきった枝葉が新聞紙の上に落ちる度に聞こえるリズミカルなちょき、ちょき、という音に耳を傾けながらどこか呆然とその光景を眺めていた。
が…やがて虎次郎が新聞紙を畳んで立ち上がったところで、ようやくカオルが思い出したように「おはようございます…。」と声をかけると、虎次郎は一瞬面食らったような顔をしたが、すぐ照れたように笑って、
「挨拶を忘れていたとは…」
ボケちゃいましたかねえ…と笑い、「おはようございます。」と、嬉しそうに目を細めた。
そんな虎次郎を前に、ほぼ全員が朝日の光もあいまって、同じく目を細めたのは実に当然の事と言えた。
「ところで皆さん。お忙しいところ恐縮ですが、どなたかほんの少し、時間を下さる方はいませんか。ちょっとだけお手伝いしてもらいたいことがあるんですが。」
「おねがいします」とぺこ、と頭を下げた虎次郎の頼みを、一体どうして断れるだろう、というのが満場一致の意見だ。
そうして無意識に通武が隣の巨大なゴミ袋のような物体の襟首を捕まえると、小五郎が納得したように頷いた。
その二人の行動に、目の前のカオルと山縣はその物体を見るなり「あ、高杉君、居たんだ」と、ようやくその存在を知るに至った。
「???」
もちろん、当の本人は目覚めた瞬間、椅子に座らされて、寮内の落し物整理のお手伝いをする羽目になろうとは知る由もない。
ありがとうございます、とにこやかな笑顔で東風を引き取った虎次郎は、小五郎達から少し離れたテーブルで、寮内のありとあらゆる忘れ物が入れられた大きな段ボールを一つ持ってくると、なにやら楽しげに分別をし始めたのであった。
「…」
嵐が過ぎ去った…というにはあまりにも穏やかだったので、とりあえず薫風に撫でられた、という表現に頷いた四人は、「お茶、熱いうちにどうぞ」と件の薫風に言われた通り、湯のみを持って一息をいれた。
「…なんだかな…。」
完全に毒気を抜かれてしまった少年達が何やら気まずげに湯のみをしばらくぐるぐると回していると、通武がぽつりと漏らした。
「…そういえば…おい、山縣とか言ったか…。」
「ん?」
唐突の名指しに、山縣が顔を上げる。
「貴様…さきほど、伊藤と…その、結婚を前提にどうとか言っていたが…」
「ああ、うん。そうだな。」
「ちょっと久坂くん?それこいつの妄想だから。スル―する所だからね。」
双方まじめな顔をしていることに、カオルが咄嗟に突っ込みを入れたが、なぜか山縣が無駄にキリっとしたイケメン顔で湯のみをテーブルに置きながらカオルの言葉には全く耳を貸さずに頷いた。
「伊藤はお前らが思ってる以上に儚くて繊細だから…。」
「!!!!?」
「おーい、妄想ですよ。全部妄想。」
「あいつ、言ったんだ…。山縣くん、離れたくない、大好き、一生傍に居て、って。そこで俺は持てるだけの力を振り絞って伊藤を抱きしめた…。春の終りだった…夜の中庭で、桜が舞っていた…。」
「だ、だだ抱きしめ…!!?」
「いや、妄想だから。」
「そこで、俺達は初めてキスをして、一晩を共に過ごした…。」
「ななななな…!!!」
「おい!!捏造だよ!!100%こいつの頭の中だけで繰り広げられてる妄想の類だから!!」
「そこで俺は伊藤の寝顔を見ながら誓ったんだ…こいつを幸せにする…って。」
「ま、待て…!!奴は自ら女人が好きだと公言していたはずだ!!そ、そんな男に身体を許すなど…!!」
「いや、だから許してねえって!!あと長いんだよ‼この
律儀に突っ込みを入れるカオルだが、通武には全く届いていないらしい。
スル―すべきの山縣の妄想にがっちりと囚われてしまっている。
その上、動揺している通武の様子を見た山縣がとんでもないことを言いだして事態は収拾の付かない方向へ向かっていった。
「お前、やたらと突っかかってくるけど…なんだ?まさか伊藤のことが好きなのか?」
「だ、誰があんな男を好きになどなるかーーーー!!!」
山縣の怪訝な顔を前に、これには流石の通武も黙ってはいられず、抱えていた木刀を上段の構えから、山縣目がけて一気に振り下ろした。
それを華麗にかわした山縣は、目の色を変えた通武にハッとなる。
「待てよ。伊藤はよく木刀片手に追いかけまわされて乱暴されたって泣いてたな…!!てめぇまさか!!同室であることをいいことに暴力に物言わせて伊藤を無理矢理…!!」
「おぞましいことを口にするなーーーー!!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた山縣と通武を余所に、完全に突っ込む気力を無くしたカオルは、黙ってお茶を呑んでいた小五郎に向かうと、額に手を当てて呟いた。
「えっと…なんの話をしてましたっけ?」
「…忘れた。」
湯のみを置いた小五郎は、再び日経新聞を広げ始め、その横で通武と山縣の言い争いはますますヒートアップしてゆく。
「だいたいてめぇら伊藤の何を知ってんだ!!俺なんか伊藤のことなら身長体重スリーサイズ、服のサイズ、靴のサイズ、股下、座高、指輪のサイズ、使ってるシャンプー、尻の柔らかさに至るまで完璧に熟知している!!お前らなんて伊藤の同室者のくせにケータイの番号も知らないだろ!!前に伊藤から聞いたぞ!!」
「そ、それとこれとは…」
言い淀んだ通武を前に山縣は自分のケータイを取り出すと「伊藤俊輔」と書かれた電話帳を開き、黄門様の印籠のごとく通武に付きつけた。
「これが目に入らねぇか!!!恐れ多くもほ、ほほほほほほ本人から教えて貰った番号だ!!!」
「…こいつ、俊輔のケータイ電話の情報を得るためだけに、国の軍事施設をハッキングして、うちのクラスの傍受を試みようとした可哀想な子なんです…。」
直接聞けよ、と呟くカオルを他所に、通武は初めて見る同室者の電話番号に思わず木刀をピタリと止め、連なる11桁の番号を喰い入るように眺めた。
思えば一度も電話などしたことが無かった。
無論、必要ないといえばそうかもしれない。実際彼の番号を知らなくても不便はしなかった。
なぜなら…彼は毎日、毎日、当たり前のように「そこ」に居た。
会えない日などなかった。
「…」
その時、通武はなぜだか無性にその声が聞きたくなった。
聞きたくて聞きたくて、気が付けば山縣の手からケータイ電話を奪って、その番号を押していた。
「あ」
山縣のまぬけな声が聞こえ、それを見ていたカオルが深い溜息をつく。
さきほどの話から彼のケータイが音信不通であることは分かっていた。
「せめて、電話でも通じたらな…。」
そんなカオルの独り言が終るのと、山縣のケータイから電話のベルが鳴りはじめたのと…。
そして。
どこからともなく音楽が聞こえてきたのは、ほとんど同時だった。