呉越同舟

ようやく感情の昂りがおさまり、通武は1人、とぼとぼと長い廊下をあるいた。
そのままどこかに消えてしまいたいような気分だったが、これ以上誰かに心配をかけるのは気がひけたし(実際、心配する側がどれほどしんどいかを経験済みだ)何より早く寝たかった。

「(一晩ゆっくり休もう。そして、目が覚めたら…。)」

ぼんやりと考えながら下を向いて歩いていると、いつの間にか自室の前に着いていたようだ。通武が不意に顔をあげると、そこには通武の荷物をかかえたまま立っている東風と、壁を背にしてガラ悪く座っている小五郎がいた。

「おせぇ。」

苦々しい表情をした小五郎に通武が首を傾げる。
すると東風が通武の荷物を抱きしめながら、ちいさく「鍵」とつぶやく。
どうらや鍵がなくて部屋の中に入れなかったらしい。

「持っていないのか。」

通武が不思議そうな顔をしながらジャージのポケットに手を入れると、東風がこっくりと頷き、小五郎もぶっきらぼうに「ねぇよ」と応えながら溜息をついた。

「今日は帰るつもりじゃなかったからな。」

「…俺ならもう心配いらん。行きたいところに行けばいい。」

「いや。今日はもうやめにした。」

取り出した鍵から視線を外し、通武と東風が小五郎の方を見ると、彼は不貞腐れたような顔をした。

「仕方ねぇだろ。どこかの誰かのせいで宿主を丸裸状態で放置してきたんだ。いまさら戻ったって話しがこじれて面倒くせぇだろーが。」

「丸裸…。」

「なぜ…。」

「うるせぇ黙れ。はやくあけろ。」

「…えらそうに。」

小五郎の噛みつくような凶悪な視線に通武が若干イラっとするのも無理はない。なぜこうも同じ年齢の男から指図されなければならないのか。
さきほどの感謝の気持ちを忘れたわけではないが、こうも恩を押し売りされると気分がいいものではない。

「偉そうだと?オレが。このオレが、誰のためにこうやって着の身着のままで出てきてやったと思ってんだ、ああ?それもこれも自己管理のなってねぇテメェがカエルみてーにひっくり返って目を回したことが原因だろうが。」

「手持ちの服が制服しか残っていない輩に言われる筋合いはない。」

これにはさすがに小五郎の目付きが変わった。

「…死にてぇならそう言えよ。いつだってチャカぐらいは常備してんぞ。竹光侍。」

「笑わせるな。貴様なんぞ竹刀で十分だ。ひよこ暴力団。」

同じく通武も東風の抱えていた荷物から年季の入った竹刀を取り出すと、その代わり手に持っていた鍵を東風に押し付け、竹刀の切っ先を小五郎に向け、威嚇をする。
今にもガルル、と唸り声の聞こえてきそうな二人を交互に見た東風は、掌の鍵をじっ、とながめると、未だに怒鳴りあっている通武と小五郎を余所に、ひとりドアの前へと移動した。

「だいたい貴様がきちんとビールの缶を処理していればあんな匂いにはならないはずだろう!!あのなんとも例えがたい悪臭は明らかにビール缶から発しているではないか!!一回意を決して流しに半分残った缶ビールをあけてみたら、何やら白い物体が出てきたぞ!!!飲み残しをそのままにする気持ちが分からん!!!」

「てめぇこそ毎日毎日汗だくの黄ばんだタオルをそのまま積み重ねやがって!!!あれのせいでもう2、3回は着れそうなTシャツに匂いが移ったんじゃねぇか!!!あと前から言おうと思ってたけどな!!てめぇの靴下および靴から賞味期限切れの納豆みてぇな公害レベルの匂いがするって知ってっか!!??ああ!!??」

双方譲らずの恥ずかしい暴露攻防は一年宿舎の廊下じゅうに響き渡ることになったが、あいにくそれを嬉々として野次馬する住人も、迷惑とする住人さえ残っていないらしい。
一年の宿舎は二人の怒号をのぞいてはまったく静かなもので、残り少ない体力で腹の底から怒鳴り合う二人がぜぇぜぇと息を切らしながら睨みあったその瞬間に、カチャン、と東風が玄関のドアの鍵を開けた音がむなしくひびいた。

「…アホらしい。」

舌打ちを零して、先に凶器を下げたのは小五郎だった。

「時間も体力も無駄だ。オレは寝る。」

「そうだ、寝ろ。さっさと寝ろ。」

通武の言葉に、いい加減にしろ、と小五郎が悪態をつこうとすると、通武が思いのほか真面目な顔をしており、小五郎は思わず口をとじる。
通武は小五郎から視線を外すと、ドアを開けて部屋の中へ入る東風の猫背を見ながら小さな声で呟いた。

「…俺達は疲れている。一晩ゆっくり休もう。…そして明日目が覚めたら…そしたら…。部屋を片付けるのを手伝え。」

「…。」

それだけ言うと通武は竹刀を下ろして小五郎の顔を見た。
小五郎は顔をしかめて通武の視線から逃げるように顔を背けると頭をガリガリと掻きながら深い溜息を吐いた。

「…納豆臭のする布切れはてめぇで片付けるんだろうな。」

「貴様が缶の中の白い物体を片付けるならな。」

「…上等だ。」

クソ野郎、と小五郎にしては覇気の無い声で呟いた声がなんだか妙にしおらしく見えて、通武の口元が思わず緩みそうになった、その時である。

どさどさ、という大きな音が部屋の中から聞こえ、通武と小五郎が同時に顔を見合わせた。
それからすさまじい勢いで玄関に入ると、まるで転げるようにリビングへと向かった。

そこには真っ暗なリビングで、東風が1人佇んでいた。
二人が怪訝な顔をする。どうしたというのか、と通武が東風の足元を見れば、自分の荷物が無造作に床に転がっている。

しかし、重要なのはそこではない。妙だ。

「暴力団、灯りをつけろ。」

「は?」

「いいから、早く灯りをつけろ!!」

通武の言葉に、小五郎は顔をしかめながら壁のスイッチを手さぐりで押した。
途端に、眩しい光が部屋を照らす。
果たして、通武と小五郎がそこでみたのは…。

「…これは…。」

まったく汚れたところのない、綺麗なリビングだった。

「ゴミが…」

呟いた通武がハッとして、洗面台をのぞく。積み上がっていた洗濯物がきれいになくなっており、チリひとつ落ちていない。
通武が呆然としてリビングに戻ると、小五郎が全く同じ表情をして、台所から戻って来た。
散らかっていたゴミ袋、ゴミ、もちろん謎の物体が入った数十本の缶ビールは勿論、黄ばんで納豆の香りのする洗濯ものが一切きれいになっているのだ。

そう、それはまるで…。
まだ、この部屋に彼が居た時のように。

「…!!!」

顔を見合わせた三人がハッとして同じ方向へと走る。
ガタイの良い三人が狭い廊下をぎゅうぎゅうの状態で転がる姿はなんとも珍妙であったが、構う暇もない。
かくしてドアノブを掴むことに成功した通武が一週間前と同様、勢いよくその扉を開け放ち、ほとんど連携プレーのように、小五郎が壁のスイッチをつけた。

「…っ。」

そして目に飛び込んできた光景に、三人は思わず息をのんだ。


その音が、段ボール箱も、折りたたみベッドも何もかもなくなって、がらんとした部屋にこだましたようだった。
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