呉越同舟
寮内は静まり返っていて何の音も聞こえない。
管理人室をあとにした三人は、誰も居ない真夜中の大食堂で顔を見合わせた。
玄関から漏れる淡い光だけが頼りだったが、それすら逆光になっていて互いにどんな表情をしているか分からない。
同時にふい、と小五郎は顔を逸らし、東風は黙ったままうつむいてしまい、ますます表情を伺い知ることは難しくなったが、なんとなく自分と同じような顔をしているのだろうな、と通武は思う。
おそらくは叱られて、不貞腐れているような顔なんだろう。
理由はわかりきっている。
気まずいのだ。みんな。
通武はしばらく黙って佇んでいたが、思いきったように顔をあげて、二人に「おい」と声をかけた。
「悪かったな。」
同時に、小五郎と東風の顔が上がる。
暗がりに目が慣れて、その表情が不貞腐れているような顔から驚きに目を見開いているような表情になっていたのが見え、通武は言った後から急にいたたまれないような心持ちになり、慌てて二人に背を向けて早足にその場から離れようとした。
が、空腹のうえ疲れ切った身体が気持ちについてゆかない。
「ぬ」
振りかえった瞬間、稽古道具に重心を取られた通武が思わずヨロめき、さきほどのデジャブを感じていると、なぜか床へ吸い寄せられる重力に歯止めがかかった。
「…?」
停止した身体に疑問を持っていると、いつの間にか通武の両隣に東風と小五郎の姿があった。小五郎は後ろから通武のジャージの襟首を掴み、東風は通武の腕から稽古道具を奪って胸に抱えている。
二人の鮮やかな連係プレーにより再び床とのキスを回避した通武がめずらしくきょとんとしたような顔をすると、溜息をついた小五郎が通武の襟首から腕を外した。
重い稽古道具から解放された通武がもうよろめくことはない。
そのまま無言で、東風と小五郎が通武を追い抜いて一年生宿舎のある一階廊下に進んでゆく。
通武はその後ろ姿を見ながら呆然と立ち尽くした。
そしてなぜか、ふいにもう数週間もまえに聞いた言葉が通武の頭の中によみがえった。
久坂くんも、慣れ合いなんて必要ない?
何も言わずに手を差し伸べてきて、それが当たり前であるかのような二人の後ろ姿に、通武はぎゅう、と心が締め付けられるような気持ちだった。
みるみるうちに顔が歪み始め、視界がぼやけてゆく。
「(なんという傲慢無礼な人間なのか。)」
必要ないわけがない。
こんなにフラフラで、1人では満足に食事の準備もできず、体調管理もできず、何もかも自分1人で何でもできると勘違いしている人間が。
他の誰かの援助を当たり前だと思って生きている人間が、よくも慣れ合いなど必要ないだなんて偉そうに言えたものだ。
「(いつだって誰かの助けを借りなければ生きていけるはずがないのに。)」
理屈では分かっていたつもりだった。
しかし実際の経験はより強烈に通武に染み込んでくる。
己の不甲斐なさに通武は唇を噛みしめた。至らなさに言葉もない。
だが、一番通武の感情をかきまわしたのは頭の中に浮かぶ小さな頼りない背中だった。
小さな背中が生きる上での様々な仕事を自分達に強要したことは一度もなかった。
掃除も洗濯も食事の支度も。
彼は自分に与えられた当たり前の仕事であるかのように振舞っていたために、自分達はすっかりと慣れてしまっていたのだ。
一度だってなかった。
目の下にクマを作りながら、彼はくだらない話しをするばかりで、「手伝ってほしい」だなんて、一度も言わなかった。
それがいつの間にか当たり前になっていた。
前方を進む大きな二つの背中がどんどんと霞んでゆく。
通武は思わず声を上げそうだった。
思い浮かべた小さな背中への気持ちと似たものがあったが、同時に己に向かう憤りに近いものも共有していた。
手を差し伸べる、ほんの少しの気遣い。
なぜそれが、小さな背中に向けられなかったのだろう。
なぜ自分はさきほどの彼らのように、黙って小さな背中が抱える荷物を持ってやらなかったのだろう。
今さら何を、と頭の中で冷静な自分が冷たく言い放つ。
溢れだした感情の起伏に、通武はしばらくそのまま立ち尽くし、汗臭いジャージを目頭に当てていた。