呉越同舟






よい香りがする。




炊きたての米の匂いに、通武は急に腹が減っていたことを思い出した。

この香りを嗅いだのはいつ以来だろう?
久しく覚えがないのは確かなのだが…。
ほかほかと湯気のあがる白米に、食欲をそそる味噌汁。

「(…腹が減った)」

カロリーメイトと栄養ドリンク、それから甘いだけの菓子パンだけで食いつないできた通武にとっては、白米と味噌汁がまるで至高のご馳走に見える。
白米がなみなみと盛られた茶碗が目の前にやってきて、通武がそれを受け取ろうと手を伸ばした瞬間。

ご飯の盛られた茶碗は跡かたもなく消えてしまった。






「…。」


視界に飛び込んできた光に、通武は目を細めて険しい顔をする。

いきなり網膜に眩しい光を受けて正常に目が働かなかったのだが、だんだんとその明るさに慣れてくると蛍光灯と古びた天井が見え、そこが現実の世界であると気がついた通武は静かに、そして長い深い溜息をはいた。


「(…夢。)」


妙にがっかりとした通武は、湯気の立った炊きたての白米の姿を思い出しながらもう一度目を閉じてみたが、当然ながらもう何も見えない。

仕方なく目を開き横になった状態のままで、うつろな瞳を動かして周囲を見回した。
味わい深いレトロな天井の壁紙がはっきりと見えるので、どうやら眼鏡はかけているらしい。

朦朧とした意識の中、なぜかズキズキと痛む頭に顔を顰めながらも、通武はゆっくりと起き上がった。
すると、ぽとり、と白いタオルが額から滑り落ち、通武は眉を寄せた。

「…?」

反射的にタオルを拾おうと通武は左手を動かそうとしたが、どういうわけか手が言うことをきかない。
そこで彼は、自分の左手がなにやら温かいことに気が付き、寝ぼけた状態で半眼のままその原因に視線を向けた。


「…。」


「…。」



そこには無表情で、通武の手を握りしめている東風の姿。

お互い目があい、情熱的に見つめあってから数秒後、通武の全身に鳥肌がぶわっと姿を現すがはやいか、彼はおそろしいスピードで手を振り払い、どこからともなく竹刀を取り出すとすさまじい形相をして東風の喉元につきつけた。

「貴様は…!!!俺の部屋で何を不気味なことをしているんだ…!!!」

ワナワナと怒りに震えながら通武が詰め寄ると、横から「テメェの部屋じゃねえ。」と呆れたような声が聞こえ、通武が恐ろしい形相のままで声の方に顔を向けると、これまた馴染みの顔が視界にはいった。

「ついでに言うと、そいつが手を握っていたのは、テメェが唸りながら手をプルプルさせながら空中を彷徨わせていたからだ。」

「和田小五郎…。」

立派なアンティーク調の1人がけソファに座った小五郎の姿に、通武は東風の喉元から竹刀を下ろすと静かに辺りを見回し怪訝な顔をした。
確かに自分が横になっていた3人掛けの大きなソファは通武にはまったく見覚えがない代物だ。おまけに床はフローリングではなく冷たい印象のリノリウム。
よく分からないが、近くの壁には何やら「緊急サイレン通知」と黄ばんだ紙に注意書きの書かれたボタンやランプ。その横には黒い古びたモニターがある。
小五郎の言うとおり寮の自室ではなさそうである。
通武はジンジンと痛む額に手を当てながら顔を顰めた。

「…なんなんだ、ここは…。」

「それより、どんな夢を見てたのか教えてくれよ。」

ニヤニヤとしている小五郎に、通武はさきほどの白米大盛りの茶碗の夢を思い出し1人赤面しながら「黙れ!!」と竹刀で床をぴしゃりと叩いた。
その姿を見た小五郎はつまらなさそうに「なんだ」と言いながら溜息をつく。

「思ったよりずっと元気そうじゃねぇか。高杉が手を握りながら『コナンくん、しっかり』とかなんとか小声で呼びかけるからてっきりご臨終かと思ったぜ。」

「…。」

通武が東風を見ると、彼は無表情で床に正座したままふい、と視線だけ逸らした。
よくよく見れば、彼の手には赤い蝶ネクタイが握られている。

「…。」

通武が顔を引きつらせていると、その空気を一変させるような「やあ」という明るい声が奥の方から聞こえ、三人がいっせいにそちらを向く。

応接間と思われれる部屋から続く奥の部屋から虎次郎がお盆を持ってひょっこりと姿を現した。

「起きましたか、久坂くん。いやあよかったよかった。」

「杉さん…。と、いうことは、ここは…。」

「管理人室ですよ。」

「はい、どうぞ」と湯のみを手渡され、通武は黙ってそれを受け取った。
通武が「どうも」と言う前に虎次郎は通武の顔を覗き込むように体制を屈めると心配そうな顔をした。

「痛いところは?」

「あ…。」

問われて、通武は大食堂へ向かう間際、盛大にすっ転んだのを思い出した。
どうやらそのお陰で近くの管理人室に運ばれたらしい。
そのことに気がついた通武はあまりの恥ずかしさに顔から火が噴き出そうになり、まともに顔を上げられず無愛想に頷くのが精一杯だった。

「そうか。よかったねえ。怪我がなくて。」

そんな通武に虎次郎はにっこりと笑うとシワだらけの手で通武の頭をふわ、と撫でた。
それがどうしてか嫌ではなく、妙にジンとしてしまって、通武はごまかすように無愛想な態度のまま虎次郎にぺこり、と一礼をしたまま顔をあげなかった。

目下には白米ではないが緑茶が白い湯気を立ち昇らせている。
香ばしく香る玄米の匂いにつられ、通武は素直に湯のみに口をつけた。
この玄米茶の匂いのせいであんな夢を見たのかもしれないとぼんやりと考えながら。

虎次郎は小五郎と東風にも湯のみを渡し終えると、下座の小さな椅子にちょこんと腰かけて「いや、しかし助かった」と笑った。

「久坂くんが倒れて、運ぼうと思ったんだけれど、年寄り1人では力が及ばず…。そこで和田くんと高杉くんに助っ人をお願いしたんですよ。携帯電話とは実に便利ですね。」

「…貴様らが?」

虎次郎の話を聞いて、心底意外だ、という顔をした通武に小五郎も東風も黙ってお茶を啜っている。この連中が人のために動くような性格でないということを知っていたからだ。
それが、何故。

「いい同室者を持ちましたね。電話越しで『君のところの同室者が玄関前で倒れている』と連絡を入れたら二人ともすぐに走ってきてくれましたよ。それに、こうして君が目を覚ますまで付き添っていてくれた。」

「…。」

通武は二人の同室者を見た。
小五郎はカッターシャツ一枚で、よく見れば髪の毛も少し乱れているようだ。東風も身体のあちこちに絵の具を付けたまま、それを洗いもしていない上、きたない上下のスウェットははっきり言って少し臭い。

二人が本当になりふり構わずに駆け付けたのだと知って、そこで通武はようやく理解した。

おそらく『同室者』と聞いて、二人が連想したのは自分ではなかったのだろう。
一週間顔を見ていない、もう一人の「同室者」を二人は思い浮かべたに違いない。

「(…それなのに。)」

倒れているのが目的の人物ではないと分かったのに、何故彼らは自分が目覚めるまでここに居てくれたのだろう。

妙に気まずいような気分になって、通武がわけもなくぐるぐると湯のみを回していると、チッ、という舌うちが耳に入った。

「勘違いすんなよ。」

不意に苛立たしげな口調で声をあげたのは小五郎だった。
彼はソファの肘掛をトントンと叩きながらひどくご機嫌ナナメのようである。

「これでもし『同室者おまえ』が死んだら、目覚めが悪くなるんだよ。一応手助けしときゃ、後で言い訳できんだろーが。」

小五郎の言葉に、通武は床に座ったまま湯のみに口を付けている東風を見た。
彼は通武の視線に気が付いて、ちら、と視線を向けたが、すぐに湯のみの方へ視線を戻してズズズと音を立ててお茶をすすった。

「…。」

そんな反応に通武が黙って自分の湯のみへ視線を向けると、虎次郎が「でもね」と溜息まじりに呟いた。



「伊藤くんとは、どうしても連絡がつかなくて。」



瞬間、三人は顔をあげて、虎次郎を見る。
なかばぎょっとしたような顔をした三人に虎次郎が僅かに首を傾げたが、誰も口を開くことは無かった。
それから彼の言葉を頭の中で噛みしめるように反芻した。


実に、一週間ぶりに聞く名前だった。


それぞれがどんな気持ちでその名前を聞いたか、通武にはわからない。
それでも、彼らが纏う空気が、雰囲気が、気持ちが、想いが同じであるような気がして、通武は唇をぐっと噛みしめた。


それから暫く黙っていたかと思うと、ほとんど絞り出すような声で呟いた。

「…来ないと思います。」

「ん?」

「連絡がついたとしても…あいつは来ないと思います。」

湯のみを持つ通武の手が僅かに震えた。

見据えた先の虎次郎は、通武の言葉にきょとんとした顔をしている。
「なぜ?」なんて、愚問だ。
通武の言葉に、小五郎も東風も何も言わなかった。
その理由が二人にも分かっていた。
彼の言葉に小五郎と東風が視線を下げる。

理由は言うまでも無い。





だが。




「そんなことはない。」



あっけらかんと言い放った虎次郎に、今度は3人がきょとんとする番だった。
虎次郎は三者の顔を見渡してから穏やかな顔でふ、と笑った。


「君たちのうち誰か1人でも倒れたと知ったら、彼はきっとどんな道でも全速力で駆けつけてくれる。」


「そうだろう?」と虎次郎が穏やかな瞳で言ったのを聞いて、誰も首を横に振る者はいなかった。

「だから」と虎次郎はにっこりと笑った。






「君達だって、きっと彼のためならどこまでも走っていける。」






どこまでも、と呟いた虎次郎に異論を唱える者はだれもいなかった。



通武の湯のみは、いつのまにかからっぽになっていた。
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