呉越同舟

「…っ!!」


教室で溢れだした怒りにも似た感情がフラッシュバックし、小五郎は衝動のままにクローゼットの扉を叩きつけるように閉めた。
ガッ、と凄まじい音が鳴り、部屋に振動が伝わる。
クローゼットの扉はいやな音を立てて蝶番が外れ、木目にヒビが入ったのが確認できたが、それだけでは彼の憤りはおさまらない。
小五郎は緩めたネクタイを引きちぎるようにして外しベッドに投げ捨て、そのまま上着のポケットからケータイ電話を取り出すと、まだ寮にいる知り合いの電話番号に片っ端からかけまくった。
その中で連絡のついた友人に「今日はそこに泊まる」と一方的に告げてケータイを切ると、そのまま何も用意せずに自室を後にする。

「(こんな部屋で寝泊まりできるか…!!)」

ゴミだらけのリビング、異臭のする台所を通り抜けて、小五郎は玄関に向かう。

「(どうせ明日からは休みだ。適当に相手の部屋にそのまま居座ればいい。)」

この部屋が綺麗になるまで戻って来なければいい。
なにもこの部屋に留まる必要はない。

「(そうだ、わざわざこんなところに…)」

そんなことを考えながら短い廊下を早足で通り過ぎ、小さなオレンジ色の電灯がポツンとついた半畳ほどの玄関に差し掛かかろうとした、そのときだった。




でかけんのか?




瞬間、息が止まりそうになった。
廊下の途中で立ち止まり、小五郎は驚きに目を見開いたまま後ろを振り返る。

思い浮かべたのは、洗いたての洗濯物を畳みながら首を傾げるまぬけ顔。
それから―。

「…っ」

味噌汁の入ったお椀を、両手で差し出す姿。



しかし、小五郎の目に飛び込んできたのは真っ暗で人の気配を感じさせないリビング。
当然ながら、誰も居るはずがない。

「…。」

小五郎はそのまま立ちすくんで数秒間、真っ暗なリビングを凝視していた。

それからどれほどそのままでいただろうか。
時間にすればほんの数秒であったが、小五郎には随分と長い時間のように感じられた。

「…わけがわからねぇ。」

クソ、と零して闇の中にぼんやりと浮かんだリビングをしばらく見ていた小五郎は、ふいに踵を返すと玄関の方へ向かい靴を履いた。
そしてドアノブを回す。
ドアを開ける瞬間、そういえば、と小五郎はぼんやりと思い出した。
この一週間、一度も味噌汁を飲んでいないことにようやく気が付いた。
だが、それが部屋に残る理由には至らない。


小五郎は廊下に出てドアを閉める。
パタンという音がよく響いた気がした。

リビングからは何の音も帰ってこなかった。










「久坂は今日残るように。以上!解散!!」

「「ありがとうございました!!」」

ゼーゼーと肩で息をした部員たちが一斉に頭を下げる。
その中で通武は号令をかけた主将の声を聞きながら汗を拭うことも忘れ、夕暮れに彩られた道場に茫然と立ちつくしていた。

連休7日目。
GW中の剣道部の強化練習も一週間目をもって、めでたく最終日を迎えようとしている。
待ちに待った連休を目の前にぶらさげられ、ほとんどの一年部員が浮足立った状態でへろへろとした素振りをしてしまうのは無理もない。
そんな一年生の嘆かわしい姿をみた鬼主将が激昂するのはごくごく当然といえた。

結果、浮足だってへろへろだった一年生は恐怖の強化特訓特別メニューを言いわたされ、練習が終わる頃には浮足立つさまを遥かに通りこして、天に昇りかけている輩が数名。
そんな状態の一年生に上級生が神妙な顔をして手をあわせる姿がセットで見受けられた。
そして道場の高速モップがけが終り、あとは着替えて帰るだけ、というところで、軍隊指揮官のような主将のこの一言である。

地稽古でさんざんいじめられた通武は、立っているのもやっとの有様で、それでも背筋を伸ばし、口を真一文字に結んで主将と師範に一礼をした。






「やあ。」

のん気に片手をあげた虎次郎に、通武はゼェゼェと肩で息をしながらも軽く会釈をすると開口一番に「すみません」と謝罪を口にした。

「いいえ。遅くまでお疲れ様でした。主将から話は聞いているよ。」

虎次郎は「少し待ってね」と、座っていた管理人室の窓口を離れ、奥の扉から玄関ホールに出てくると重そうな鍵束から一際大きな鍵を選んで、玄関扉の内側にある鍵穴に差しこんだ。
ガチャン、と重厚な音が響いて玄関が施錠される。
玄関ホールの掛け時計は22時半になろうとしているところだ。
門限を破った罪悪感に通武はもう一度「すみません」と小さく呟いた。



『道場を隅から隅まで雑巾がけしてこい。』

主将にそう言われ、雑巾とバケツを投げつけられたのは練習が終了し、他の部員が帰ってからのことだ。練習が終わったのは20時。
それから1人、通武はほとんど体力の残っていない身体に鞭を打って道場の端から雑巾がけをはじめた。
重い足がもたついて派手に転倒を繰り返したおかげで身体があちこち痛む。
それでも2時間以上かけて広い道場を隅から隅まで雑巾がけを終えた通武はやっとの思いで寮に辿りついたのだ。
当然ながら命令を言いつけた主将は見届けずに帰った。

「(…自業自得だ。)」

連日の寝不足に加え、疲労心労がピークに達していた通武がまともに稽古をこなせるはずがない。さらに解決の糸口の見つからない問題に思考をとられ、上の空で部活に出ていたので、まったく練習に身が入らない。
それを咎められたのはまったく正当な理由であり、罰せられるのはしかるべき対処といえる。

「(それは俺自身がいっとうよくわかっている。)」

それでも悔しくて悔しくて、雑巾がけの最中、突っ張っていた腕がガクンと落ち込んで吹っ飛ばされたように転んだときは、起き上がった瞬間、衝動的に雑巾を床に叩きつけた。
先に帰ってゆく他の部員の顔が通武の脳裏に次々とうかぶ。
悔しくて惨めでみっともなくて、思わず目に熱いものがこみ上げたが、通武は意地でも零すまいと乱暴に道着で拭う。
それを数回繰り返した。
ついでに自分の道着が臭くて同じ回数オエッとなった。

そして雑巾を洗い終わった頃にようやく門限のことを思い出した通武は倒れそうになりながら走って寮に辿りついたのだ。
本来であれば門に備え付けてある電話から寮管の宿舎に連絡をして、わざわざ門を開けて貰わなければならないのだが、虎次郎は宿舎へ戻らずに待っていてくれたようだ。

その気遣いに感謝しながら、通武はもう一度頭をぺこりと下げると、ふらふらとした足取りで玄関ホールから続く食堂へと気力をふりしぼって足を進めた。尋常ではない空腹と睡魔に加え、身体は節々が悲鳴をあげるほど疲れきっている。

感覚がマヒしているとしか言いようがなかった。

「おや」

虎次郎が声をあげたときにはすでに遅く、通武は床のわずかな段差につまずいて派手に転倒した。

倒れ込んだ瞬間、世界がスローモーションに見えた通武だが、覚えているのはそこまでだ。
彼の顔面と地面が仲良く衝突した所で、通武の視界と意識はぷっつりと途絶えたのであった。
7/11ページ