呉越同舟


「…居ない?」

通武は顔をしかめた。
さきほど確かめた玄関の靴は4足。ということは必然的にこの部屋には4人の人間が居るはずなのだが、残りの1人はどこにも見当たらない。

「靴も履かずに一体どこへ消えた…。」

「さあな。しかし…荷造りね…。決定的だな。」

小五郎の言葉に、通武は唖然として部屋の前に立ちつくした。
まだ口のあいている段ボールには必要最低限の荷物をのぞき、部屋の主の私物が詰め込まれている。
やもすれば今日中にでも引き払えるほど部屋は閑散としており、無機質に段ボールが積み上げられているさまは誰がどう見ても引っ越しの準備としか言いようがない。
小五郎は感心したように部屋の中をぐるりと見渡し、ベッドの下に落ちていたエロ本を目ざとく見つけると、それを拾いあげてパラパラとめくった。

「これで表のふざけた貼り紙の犯人が確定した訳だ。」

「めでたし、めでたし」と小五郎がエロ本を閉じると、東風が小さく拍手をしたので、通武はたまらずに「ふざけているのは貴様らだろう!!」と声を荒げた。

「この異常な事態で…なぜそうも平然としていられる!!誰の許可もなくこんな…」

「理由は知らねぇがこいつは相当ここが気に入らなかったらしいなぁ。」

積み上げられた段ボールを見て、小五郎は笑う。

「つい最近ほどいた荷物をもっぺん綺麗にまとめるなんて中途半端じゃできねぇよなぁ。ま、誰のせい、かなんてわかりゃしねーよ。」

「そうだろ、久坂。」と振り返り、口角をあげた小五郎に対し、通武は黙って立ったまま何も答えることができず、ただただ、開かれたままのケータイ電話を握りしめていた。













真っ黒な天井を見上げて、通武は黙って横になっている。
部活から帰って来た際はあんなに眠くて仕方がなかったのに、今はなかなか寝付けない。
静寂の中で時計の秒針だけが確かに動いている。
思わず上半身を動かして時間を確かめてみれば、時刻はすでに午前2時を回っていた。
数時間後にはもう朝稽古が始まる。まして新入生は上級生よりも早く道場へ行き、様々な準備をしなければならないので、少しでも長く休養をとる必要があるのに、通武に眠気が来る気配は一向にない。

「なんだというんだ…。」

くそ、と悪態を吐きながら、通武はまたごろん、と布団の上に横になると、むりやり目を閉じる。




あれから間もなく三人は解散し、それぞれの部屋に戻ることになった。
とにかくこの一連の騒動の首謀者の帰りを待って、事情を聞きださなければ、と提案した通武へ、間髪いれずに「はぁ?」と非難めいた声があがったのだ。

『帰りを待つ?冗談じゃねぇ。明日早ぇんだよ。』

そう言って早々に部屋へ戻ろうとしたのはヤクザの御曹司、和田小五郎。
エロ本を律儀にもとの位置に返した小五郎が当たり前のように自室へ戻ろうとしたのを見て、「まて、」と通武が呼び止めると、赤い髪の男はいかにも面倒くさそうな顔をしてボリボリと頭をかいた。

『だいたいあいつと話して何になる?出ていかねぇでくれとでも頼むつもりか?生憎だけどな。オレは去る者は追わねぇ主義なんだ。』

『…同室者として事の経緯を聞く義務はあるだろう。』

通武の言葉に小五郎はイヤな笑みを張り付けて笑った。

『”同室者”?”お手伝いさん”の間違いだろ。』

その言葉に計らずもカッ、となった通武は咄嗟に口を開きかけたが、小五郎は自室のドアを開けながらひどく冷たい声を出した。

『出て行きてぇなら勝手にすりゃあ良いじゃねぇか。あいつじゃなきゃダメな理由なんかねぇ。逆らわずに洗濯して、掃除して、オレ等が都合よく生活できる環境を整えてくれるなら誰だっていいんだよ。』

『…っ』

『テメーだってそうだろうが。』







真っ暗闇の中で、通武はそっと目を開いた。

「(…反論できなかった。)」

小五郎の言葉を思い出して、通武はぐ、と拳を握る。
それから今日この部屋に集まって来た連中の顔を思い浮かべた。
思い浮かべた、と言っても他人のことにあまり関心を持たない通武にとって、脳内で再生された人間の顔はみな、のっぺらぼうだ。
まれに顔に何かあると思えば顔面にへのへのもへじが崩れたようなひどい面構えの者が数名と、とにかくまともに顔を思い出せる人間など1人もいない。
そんな奇妙な人だかりの映像を浮かべながら通武はぼんやりと考える。

「(連中はこの部屋の住人を慕っている様子だった。)」

おそらくは自分達のためなら喜んで掃除なり洗濯なりをするに違いない、と通武は真っ暗な天井を見ながら思う。新しく来る人間が、もと居た人間と全うする仕事が同じなら、小五郎の言うとおり自分達の生活は滞りないものになるはずだ。

「…何も変わらない…。」

そう。
何も変わらないのだ。

ただ、見慣れた顔がひとつ変わるだけで、通武の生活には何の支障もない。
支障がなければ何も文句はない。
それは小五郎にとっても東風にとっても同じなのだろう。
現在のこの同室者達は新学期たまたま一緒の部屋になった人間で、必然性は皆無だ。
「彼ら」及び「彼」でなければならない理由などない。

代わりさえ居ればそれでいい。
そうだろう?

「(…。考えるのが…億劫だ…。)」

通武は目を閉じた。
厳しい練習のために眠らなくてはならない。

瞼の裏に、へらへらとした締りのない笑顔がはっきりと浮かび、その笑顔が揺らぐたびに、通武は目を開いた。




何も変わらないはずなのだ。



それなのに、漆黒の静寂の中に微かな物音を聞いて、「彼」が帰って来たのかと、何度も自室のドアを開けた。

結果、通武は一睡もできず朝を迎え、それから5日が過ぎても段ボールの積み上がった部屋に主が戻ってくることはなかった。

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