呉越同舟

「で、どういうことなんだ?これは。」

リビングの机の上に置かれた一枚の紙を、とん、と指で叩いた小五郎に、床に正座した通武と東風は同時に首を横に振った。




廊下の騒ぎに遭遇した小五郎は、部屋を取り囲んでいた連中をぐるりと見渡すと、彼らの手にしている「履歴書在中」の封筒と、通武の持っていた貼り紙に気が付き、器用に片眉を上げた。
それから数秒間何やら思案したかと思うと、小五郎はまるで表情を変えないまま、人垣に向かって呟いた。

「この騒ぎの首謀者にキツーイをお仕置きしねぇといけねぇなぁ。」

「?」

彼の突拍子の無い発言に、集まった連中が一同に首を傾げるのは無理もない。しかし、小五郎はさらに無表情でこう宣った。

「今から10秒数える。残った奴には拷問だ。」

瞬間、小五郎が「10」とカウントを始めるや否や、部屋の周りに集まっていた人垣は蜘蛛の子を散らすように消えてゆき、部屋の中に居た連中も我先にと廊下へ這い出るように飛び出しはじめた。それは凄まじい勢いであり、通武と東風はポカンと口を半開きにしたままその様子を眺めるほかない。
ラスト3秒には、残った数人の少年達が涙目で廊下の奥に消え、そのカウントが「ゼロ」になった時には、廊下は今までの騒ぎが嘘だったかのように、元来の静けさを取り戻した。

廊下には逃げる際に誰かが落としていった「履歴書在中」の封筒と、逃げる際に脱げてしまった靴が点々と転がっている。
1077号室の玄関は開け放たれ、室内の静寂から誰も残っていないと知れた。

「なんだ、つまんねぇな。」

しばらくその様子を見ていた通武と東風は、小五郎の鼻から抜けるような溜息と呟きを聞いて、ようやく我に返った。
そして同時に「残った奴は拷問」という恐ろしい言葉を思い出した両名が、自分達も廊下の奥に逃げようとしたのだが、そこはあっけなく小五郎に首根っこを掴まれていとも簡単にポイポイ、と室内に放られてしまい、半強制的に話し合いの場が設けられたのである。



冒頭の小五郎の質問に言葉を返したのは通武だった。

「一応聞いておくが、その貼り紙はお前がしたものではないのだな。」

「覚えがねぇから聞いてんだろーが。」

煙草に火をつけながら小五郎が呆れたように呟く。それから辺りを見回し「クセぇな」と顔をしかめた。
新陳代謝の活発な男子高校生がぎゅうぎゅう詰めになっていたリビングは、体育の後の更衣室と同じ匂いがする。

「高杉、ベランダの窓開けて来い。」

東風の方を見もせずに、小五郎が親指でベランダの方をさすと、東風は身体に毛布を巻き付けたまま、うずくまるような体制で寝転がると、そのままコロコロと狭い廊下を転がっていった。

それをうろんな目でみていた通武とは逆に、小五郎は落ち着いて「なら話しは早い。」とソファに深く背を預けた。

「オレでも、てめーでも、あいつでもねぇんなら、あとはこの部屋に1人しか残ってねぇ。」

「…!」

ハッと気が付いて、通武が顔を上げる。
そうだ。この部屋にはもう一人住人が居たのだ。
通武は背中越しに暗い玄関へ通じる廊下を見た。その通路から左側のドアを注視する。

「そういやこの騒ぎに珍しく出てこなかったが、実家にでも帰ってんのか?」

「いや…」

わからん、と通武は首を振った。
まともに会話をしないどころか、ここ1週間は顔すら合わせようとしなかったのに、彼の予定を知っているはずがない。
逆に小五郎や東風の方が接触があったのではないだろうか。
東風がベランダを開けるカラカラ、という乾いた音が聞こえたのと同時に、冷たい空気がリビングの方へ流れてきた。その冷たさを首筋に感じながら、ふと、通武は視線をキッチンにうつした。

「…あ。」

そういえば、とふいに思い出して、通武が立ち上がる。
夕方、帰ってきたときに味噌汁の香りがしていた。あの時点では彼はまだこの部屋にいた筈だ。
通武は吸い寄せられるようにキッチンへと向かう。
当たり前だが、そこには誰も居ない。


だが。

「…なんだ、これは…。」

通武が唖然としたのは無理もない。
そこには、切りかけた材料がそのままに…そして何よりも味噌汁の鍋が夕方の姿そのままで、弱火でコトコトと煮たてられていたのである。

通武は急いで鍋の火を止めると、時計と兼用のキッチンタイマーを見た。
現在の時刻は9時を少し過ぎたところだ。
と、いうことは3時間近く、この鍋の火はつけたままだったことになる。

「どういうことだ…」

眉間にシワを寄せて通武が踵を返そうとすると、コツン、と何かが右足の指先に当たった。つられる様に通武が足元を見ると、そこには二つ折りのケータイ電話が開いたまま落ちていた。

「…。」

瞬時に何やら嫌な予感がして、通武はそのケータイを拾うと、足早にキッチンを出た。それから薄暗い玄関の方へ向かう。小さな玄関用に電灯を付け靴の数を確認してから、すぐ横の個室のドアを叩いた。

「おい!!話がある!!出て来い!!」

ドンドン、と強くドアを叩くが、中から反応は無い。

「おい、寝ているのか!!おい!!」

通武の怒鳴り声に、何事かと小五郎と東風が玄関の廊下に集まってきた。
そして通武は焦れたように「開けるぞ!!」と言うが早いか、勢いよくノブを回してドアを開けた。バン、と音を立てて開いたドアの向こうは何も見えなかった。
室内は暗い。通武が壁にある電灯のスイッチを探りあてて、パチン、と鳴らすと、備え付けの古びた電灯が明滅して暗い部屋を照らしだす。

「…!」

室内を見て、3人は目を見開いた。
そこに部屋の主人はいない。
あるのは、小さな文机と、折りたたみ式のベッド。

その他は、大小の段ボール箱が所せましとひしめき合っていたのである。
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