呉越同舟
ゴールデンウィークのため帰省する生徒が荷物を抱え、楽しげに歩く姿をみた通武は、肩にかけていた稽古道具を背負いなおした。
それから正門に向かう生徒の列とは反対の方向へ一人歩いてゆく。
剣道部はGW中、強化合宿があるので帰省する生徒はいない。
合宿とは言っても、休日の練習時間よりも多少長くなる程度で、寝起きはあいかわらず道場から近場の寮だ。
「(あいつらは帰省するだろうか。)」
ふと考えたのは同室者の面々。
最近はまともに会話すらしていない三人の同室者である。
その同室者のことを考えると、部屋へと戻る足取りが重くなる。
それでも連中が帰省すれば、しばらくの間は顔を合わせなくて済むのだが、通武が同室者の予定を知っているはずもなく、やはり気は重い。
燃えるような赤い太陽が山間に姿をかくし、みるみるうちに日の丸が欠けてゆく。
背中から薄暗い夜が迫ってくる。
その速さに追われるように、通武は寮への道のりを急いだ。
不自然なことに気が付いたのは、通武が1077号室の玄関の前に立ったときだった。
いつもであれば内側から施錠してあるはずの玄関のドアが小さく開いていた。
「不用心な…。」
眉を潜めた通武は溜息をつくと、ドアノブに手をかけた。
治安が良いとは言えない男子だらけの寮内で戸締りをし忘れるとは全く、とブツブツと文句を言いながら室内に入り、きっちりと内側からカギをかける。
と、リビングから味噌汁の香りがして、中に誰が居るのか知れた。
以前であれば嫌味のひとつでも零していくところだが、今ではなるべく顔を合せないようにしている。
顔色の悪い少年の顔が思い浮かぶ。
こうして土日に通武が部活へ行く際、その少年は必ず「いってらっしゃい」と後から声をかけてきた。
そして帰って来たときは、ドアの音を聞きつけ、台所からひょっこりと顔を出し「おかえり」と言って笑うのだ。
その挨拶に通武が応えたことは一度も無かったが、その日課を少年が欠かしたことはない。
しかし、今日は勝手が違うようだ。
室内から味噌汁の香りはするのだが、人の気配が無い。
いつもなら小さな台所を動きまわる足音や、まな板で何かを切っている音が聞こえるのだが、今日は怖いくらいにシン、と静まり返り、少年が台所から顔を出して「おかえり」と言ってくることもなかった。
通武は靴をぬぎ、リビングへと向かった。
そこにはやはりというべきか、誰の姿もない。
ただ、コンロには鍋が弱火でかけられているようだ。
それをリビングから確認した通武は、台所の主がちょっとした用で外しているのだと思い、特に気に留めなかった。
それどころか、少年と顔を合わせなくても済んだ安心感から逆にホッとして、通武はいつものように洗濯かごへ汚れた衣類を入れると、自分の部屋に入った。
「(腹がへった。)」
部活で酷使した身体がエネルギーを欲している。
通武は帰りにスーパーで買ったカロリーメイトの袋を開けた。
ここ二週間の休日の食事はこれだけだ。同室者が休日につくる料理には一切手をつけなかった。栄養が取れればそれでいい。
通武はもくもくと味気のないブロックを咀嚼して無理矢理飲み込んだ。
部活に飲み残したスポーツドリンクで残りのブロックを流し込んでようやく一息つくと、ドッと疲れが襲ってきて、布団の上に横になる。
少し寝てから風呂に行こう。そう考えて、通武は文机の上に置いてある時計を見た。
17時50分。
「(1時間だけなら問題ない…。)」
眼鏡を外し、通武は目を閉じた。
おかえり
遠ざかる意識の中で、声が聞こえた気がしたが、通武は頑なにその声に応えようとはしなかった。
このとき、1077号室には、彼以外誰もいなかったということを通武は知らない。
そして、通武以外誰もいないのに、玄関に二足の靴があったことに彼は気が付かなかった。
それからどれほど時間が経っただろうか。
コンコン、と何かを叩く音が聞こえ、通武は眉間にシワを寄せた。
コンコン、という音はしばらく続いたが、通武は夢と現実の狭間でその音を聞きながら渋い顔をするだけで、完全な覚醒には至らず、不快な気分だけが夢の中に影響していた。
「お前は今日からコンコン大臣だ。」
ひょっとこのお面を被った少年が数人で自分の周りを取り囲み、通武を取り押さえようとしていて、そのうちの1人が「左大臣」と書かれた名札と、段ボールでできた帽子を無理やり通武に付けようとして迫ってくる。
「やめろ!!」と激しく抵抗していると、今度はコンコンから、ドンドン、という音に変わり、今度は「ドンドン大王」と書かれた洋服を着せられそうになったところで、通武はカッ、と目を見開いて絶叫した。
「いい加減にしろぉおおおおお!!!!」
とうとう我慢がきかず怒鳴った通武は、反射的に手元にあった竹刀を手に、半身を起こすと、音の方向で切っ先を向けたが、そこには…。
「…。」
何やら黒い物体がぼんやりといるようだったが、生憎寝起きで、眼鏡をかけていなかった通武にはそれがなんなのかさっぱり分からない。
あまりよろしくない目付きをさらに凶悪にした通武が目を細めてその物体の正体を確かめようとすると、その黒い物体が何かを自分に差し出して来たので、通武がそれを渋々受け取ると、それは彼の眼鏡だった。
通武が大人しくその眼鏡をかけると、そこに見えたのは…。
「…高杉。」
そこには通武の同室者のひとり、高杉東風がちょこんと、通武の布団の足元に正座をしていたのである。
それが夢か現実かわからなかった通武は、真顔で自分の頬をつねってみた。
頬は十分に痛かった。