呉越同舟




時はいたずらに流れてゆくものだ。
「止まれ」とどんなにわめいても、カチ、カチ、と音を立てながら時計の秒針は確かに時を刻んでゆく。

ためしに一度、俊輔は四畳半の自室で、枕元に置いてある時計の電池をはずしてみたことがあった。秒針はぴたりと止まったきり、動かなくなる。
途端に部屋がシン、と静寂に包まれた。
その静寂に耳を澄まして、俊輔はゆっくりと目を閉じる。
この時計はドラえもんが出してくれた道具で、電池を外すと世界中の時間が止まってしまう秘密道具。

「(時間を止めたら、そしたらおれは。)」

そう思った瞬間、どこか遠くで目覚まし時計の音が聞こえた。
古いタイプのツインベルを叩き鳴らす騒々しい「ジリリリリリリリリ」という音に、俊輔は目を開けた。
隣人のセットした目覚まし音はしばらくして止んだ。
誰かが止めたらしい。

俊輔はボリボリと頭をかくと、止まった自分の時計に目を落とした。
これはドラえもんが出してくれた道具で、電池を外すと世界中の時間が止まってしまう秘密道具…。

「…んなわけねぇっての。」

ガコ、と外していた単三電池を時計にはめ込んだ。
またカチ、カチ、と動きだした秒針を眺めながら俊輔は大きな欠伸をすると、のそのそと立ち上がる。
その際急に咳き込んで、俊輔は「うえっほ」と舌を出しながらしばらく咳を続けた。
ようやく咳が落ち着いたところで時計を見ると、時計は約2分遅れで4時43分を指している。おそらくレトロなツインベルを鳴らした隣人も、5時からの朝清掃の当番にあたっているのだろう。俊輔は手早くジャージに着替えると、いままで着ていたスウェットを折りたたみベッドの上に放った。
それから手狭な部屋のドアを開けようとノブに手をかけると、2分遅れで俊輔の目覚まし時計がけたたましい音を上げながら、タイマーである4時45分の来訪を主人に告げた。

「オメーはもういいんだっての!」

目覚まし時計の前にしゃがみ込んで、ツッコミを入れる手刀の形で、俊輔は時計の頭に付いているボタンを軽く叩いた。
それから「やれやれどっこいしょ。」と立ち上がると、静かにドアを開けた。
日はずいぶんと高くなったようだ。
薄く色づいてきている外の光がベランダから漏れているさまを、目を細めて眺めた俊輔は、また一つちいさな欠伸を零すと、玄関の運動靴をスリッパのようにひっかけた。

「いってきあーす。」

リビングに向かって言ってみたが、もちろん返事が戻ってくるはずがない。
俊輔は気にせずに玄関をあけた。

ずいぶんと穏やかになってきた春の風が暗い室内に入ってくる。

4月28日、木曜日。

今月学校のある最後の平日。
翌日、29日の金曜日を超えれば、いよいよ30日。
小五郎との約束のタイムリミットが迫っていた。
同時に、29日からゴールデンウィークが幕を明ける。


中庭の桜は散ってしまった。
それでも山間にあるこの学園の桜はずいぶんと長持ちをしたように俊輔は思う。
まもなく新緑の季節がやってくる。

結局、みんなで花見をするという俊輔の淡い願いは叶わなかった。
言葉通り、散った。

それも仕方がない。
俊輔は十分すぎるほど桜を愛でた。
中庭を通るたびに、足を止めて1人、呆れるほど桜を眺めていた。網膜に焼き付けるように、一心に淡い薄紅の洪水の中に埋もれながら4月を過ごした。
今はもう、その名残のなく、青々とした葉をその身に纏う桜を眺め、「まぁこれも悪くはねーか」と俊輔は勝手に思う。

それからゆっくりと歩き出した。

「(今日の味噌汁の具は何にしよう。)」

あいかわらず、目の下にクマを携えた俊輔は、また小さく咳き込んだ。

「(いっそのこと変わり種でも仕込んだろうか。納豆オクラヤマイモでぬるぬる味噌汁…。あ、やばい、今一瞬エロい方向に考えてしまった…。ぬるぬるとか卑猥じゃねーか。ナシだナシ。またSM味噌汁プレイに持ち込まれれば今度こそ犯られる。二日ばかり早く和田くんの奴隷になっちまう。おれは最後まであがく性質なんだ…。)」

ブツブツと呟きながら俊輔は大食堂を目指す。

それはいつもと変わらない風景だった。


同じく掃除当番に当たっていた山縣に尻を揉みしだかれ、俊輔が「成敗!」とホウキで彼の頭をはたいたのはそれから10分後。



机の上でポーズをとり「GW会えなくなるなんて耐えられないから帰省前にアタシにダニエルを全部頂戴。」と言って、「うーん気が向いたらな。」というダニエルの超やる気のない返事に俊輔が拗ねたのは、それから5時間後。



結局名案が浮かばず、朝思いついたぬるぬる味噌汁を作って小五郎に献上し、見事に敗北をきしたのは、それから17時間後。



通武の早朝練習のため、毎度お馴染みのおにぎりをこしらえてやったのだが、それが手つかずのままキッチンのテーブルに置いてあるのを発見してうなだれたのは、それから1日と、4時間後。



あいかわらず真夜中の俊輔の洗濯中に、彼をモデルに絵を描く東風に「桜は散ったよ」と言っても全く聞こうとしない東風に通武のパンツを投げつけてやったのは、それから2日が経とうとしていた。



そして来たる4月最終日。

日が傾き、辺りが夕暮れに染まるころ。
1077号室のリビングには、味噌汁の良い香りが充満していた。
ミニキッチンに備え付きの電灯の下、小さなまな板の上に切りかけた材料。四つ出された食卓のお椀と皿。炊飯器は炊きあがったのか保温になっており、一回混ぜた後らしく、茶碗に水が張ってあり、そこにしゃもじが浸されている。

まさに夕飯の支度の最中だ。
しかし、そこにいるべきはずの料理人の姿は見えない。
トイレのためキッチンを離れたのだろうか。
それとも自分の部屋に何か用事があったのだろうか。
はたまた、買い忘れた物を思い出し、スーパーへ走ったか。

いずれにせよその台所は、料理人がちょっとした用事でそこを少しだけ離れただけ、という様子だった。


しかし、夜になり、日付が変更になっても、ついにそこへ料理人が戻ってくることはなかった。



4月30日、土曜日。
未明。



伊藤俊輔は失踪した。









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