朋友に処するに、勤めて相下れば



「よっこいしょ…。あ、よっこいしょって言っちゃった…。」

ダニエルとの電話を終えた俊輔は、洗い終わった衣類をカゴに入れてそっと真夜中の洗濯室の扉をしめた。

洗濯室内でのムッとした空気とは一変して、涼しい風が頬を撫でる。
俊輔はカゴを持ったまま中庭の一角にある洗濯干し場へと足を進めた。
一年生の洗濯干し場は桜の木々に囲まれているので、日当たりが悪く、乾いた際に桜の花びらがくっ付いているので周りの評判は良く無かったが、俊輔は桜に囲まれているなんて風流で良いじゃねーかと、密かにこの場所を気に入っていた。

カゴを床へ置いて一枚ずつ洗濯物を取り上げると軽くぱんぱんと音を立てて皺を伸ばす。
それを備え付けのハンガーに丁寧にかけてゆく。
本日二回目に味噌汁まみれになったお気に入りのTシャツも綺麗に汚れが落ちている。鼻を近づけてスンスンと嗅いでみれば、ふわと洗剤のいい香りがして、俊輔は笑みを浮かべた。

「うんうん。きれいきれい。」

俊輔は満足げに頷いた。
それからジッとTシャツを眺めてから「よし」と零す。


天下、意の如くならざるもの、恒に十に七、八。


「まだ駆け出しだ。焦らねーぞ。」


俊輔はTシャツのしわを伸ばしてパンパン、と景気の良い音を出す。
少なくとも同室の一人はまずいと言いつつも食べてくれた。

「まぁ最終的には呪う方向で決まりだな。」

毎晩味噌汁を持って夢枕に立ってやるからな、と呟きながら意気揚々と俊輔が洗濯物をカゴから出そうと屈もうとしたその時だった。

「あれ」

屈んだ際に視界に入った桜の木々の間を、何か白いものがフッと横切ったように見えたのである。一瞬目をぱちくりと瞬きさせた俊輔は暫くの間その白いものが消えた木々の間をジッと凝視してしまった。

そしてまた、今度は先ほどよりも離れたところで、何やら白い物体が木々の奥の暗闇にふわっと浮き上がったかと思ったら、すぐに消えてしまったのだ。

「…。」

それに一瞬固まった俊輔はハテナマークを頭の上に浮かび上がらせたまま、視線を戻して妙に真剣な面持ちで洗濯物を一枚手に取った。

「…いや。」

それから一人でゆっくりと頭を振る。

「うん。そう…きっとプラズマ。」

ブツブツと呟きながら洗濯物を持つ手がガタガタと震え始める。
それでも「違う、おれ霊感とかねえし。そういうのじゃないし。鳥かなんかだし。」と真っ青な顔のままニコニコと笑いながら、洗濯物を干しにかかる。

その時である。

ガサッと俊輔のすぐ近くで間違いなく、何か物音がした。


瞬間。


俊輔は真顔のままガッと洗濯籠を抱え、凄まじいスピードでその場から逃走したのである。
その速さと言ったら正に目にも止まらぬ速さであった。
勿論俊輔自身、幽霊やUFOなどという非科学的なものにははっきりアンチを掲げているが、よもやこんな処でそんな得体のしれないものに遭遇して「プラズマだ」なんてこの男に言えるはずがない。
俊輔の未知からの逃走はほぼ反射的な行動と言って間違いなかった。

だが。

未知との遭遇はこれに留まらなかったのである。
一心不乱に人工的な明かりの方へ逃げる俊輔の後を、間違いでなければ誰か後を追いかけてくるのである。

「ヒィイイイイイイ!!!」

これには思わず俊輔も情けない悲鳴を上げた。
創設されて50年の歴史を持つ寮ならば、そういった類の噂話は数え切れないほどある。
無念を抱いて未だ寮内をウロついている霊が居たって不思議ではない。

(あれか!!呪うとか言ったからか!!おれの不遇が霊の共感を呼んだのか!!それとも、たかだか味噌汁ごときで呪ってんじゃねーよ的なお達しか!!!)

そう妙な考えを起こしたのと同時に、ガクン、と体が宙に舞ったような気がした。
否、実際に浮いていた。目の前をスローモーションで洗ったばかりの洗濯ものが空中に舞うのが確かに見えた。

「ぐえええええ!!!」

そして同じく中空に舞った自分も鼻から地面に着地を余儀なくされ、その上ヘッドスライディングまでする羽目となってしまった。

要するに盛大にコケたのだ。

「あだだだだだだ…!!!」

想像を絶する痛さに俊輔が鼻を押さえて悶えていると、スッと誰かが背後に近付く気配を感じた。
それにハッと気が付いた俊輔はひぃ、と短く叫ぶと無我夢中で腕を背後の何者かに向かってぶんぶんと振り回した。

「ちょっと待てぇええ!!おれにはまだ半年の青春があるんだぁああ!!悪霊退散、悪霊退散、十字架ニンニク鰯の頭―――!!!!」

とりあえず魔除けになりそうな物を片っ端から口にした俊輔はパニック状態である。その「得体のしれない何者」かの正体に気がついたのも、「その何者」かが無様に転んだ自分のワキに手を入れて、ひょい、と立たせてくれてからだった。

「…。」

ぐす、と鼻を啜って見た先には見慣れた顔があった。

「…たかしゅぎくん。」

それは同室の高杉東風であった。
東風はいつもと同じ全く無気力の表情のまま、自分の名前を噛まれたことにも気にした様子はなく、俊輔の服の埃をぱんぱん、とその大きな手で払い、散らばった洗濯物を、のったりとした動作で拾い集めて籠に入れた。

それから「はい」と相変わらず蚊の鳴くような声で俊輔に渡したのだ。
そして何事も無かったように俊輔の腕を引いてもと来た道を戻り始めたのである。

全く意味の分からない俊輔は、頭にハテナマークを沢山浮かばせたまま腕を引かれるままに東風についてゆく。

そして先頭をきって歩いていた東風は先ほどの洗濯干し場に着くと、俊輔が先ほどまで作業していた場所に相違なく立たせた。

それから洗濯籠を慎重に俊輔の足元に置き、その中から一枚のバスタオルを俊輔の手に持たせると満足げにこっくりと頷いたのである。


「え」

ポカンとする俊輔をよそに、東風は、先程俊輔が白い物体を目撃した場所にツツツと歩み寄り、木の根元から大きなスケッチブックを取り出した。

「あ」

それを見た俊輔が思わず呟いたのも無理は無かった。
東風は木の根元にちょうどいい塩梅の腰掛を見つけると、そこに体育座りで座り込み、その前にスケッチブックを持って開いたのである。

「ああ!」

思わず俊輔は声を上げた。

そうしていると、大きなスケッチブックに全身黒ずくめのスウェット、真黒な髪の毛の東風の体躯は闇に溶け、まるで白いスケッチブックだけがそこに存在しているように見えるのだ。
その事実に俊輔の腕が今度は恐怖とは違う感情に震え始めた。
しかも、そこで空気を読まない東風が一言。

「あ…もうちょっと…その、バスタオルは右に…。」

「知るかあああああああ!!!!紛らわしいぃいいいい!!!」

怒りのあまり俊輔が持っていたバスタオルを地面に叩きつける。だがそれに全く構わない東風は黙々とスケッチブックに鉛筆を走らせた。


話を聞けばこの男、偶然外を覗いたところ、満月の中揺れる桜があまりに美しくスケッチに出てきたのだという。

そして、その情景にプラスして美しく洗いあげられた洗濯物が幻想的な夜にたなびき、桜や月と夢の共演を果たしているという珍妙な情景があまりに非現実的で感動的だったというのである。

「…わからん。」

そして運悪く俊輔はその情景の一部になっていたらしかったのだ。
その情景の一部が欠けたので、それをとりもどそうと東風は追ってきたらしかった。

「だからって真夜中こんなシチュエーションで追ってくる奴があるかよ!!おれの寿命縮んだよ!!!返せ!!おれの貴重な寿命を返せ!!!」

「あ…その色の洗濯ものはもっと奥の方に…」

「やかましい!!!」

威嚇するように怒鳴ったが、東風は全く聞く耳を持ず、俊輔の怒声は美しい満月の夜に空しく響いたのだった。


かくして、俊輔の波乱の一週間が幕を閉じた。

結局満月が東風のポジションから見えなくなるまでスケッチに付き合わされ、よれよれのままの俊輔が翌朝作った味噌汁が鬼のようの不味さになったのは言うまでも無く、俊輔は日曜日も味噌汁シャワーを小五郎から食らう羽目になったのだった。
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