朋友に処するに、勤めて相下れば
「おおおおおお?」
それから慌てて小五郎の後を追うと、彼は無表情のまま食卓の上に用意されたお椀を手に取り、テーブルの中央に置いてある鍋から、なんと、俊輔お手製の味噌汁を一杯すくったのである。
瞬間、リビングの前で立ち尽くしていた俊輔はぱあああと顔を明るくさせた。
「(あ、あの暴君、和田小五郎が、おれの!おれの特製味噌汁を飲んでいる!!)」
それはもう俊輔は嬉しくて小躍りしたいくらいに浮かれまくった。
実を言うと、俊輔が一番こだわったのは味噌汁だったのだ。
この寮の大食堂で出される味噌汁の旨さに俊輔は目覚めたのである。
丁度良い塩加減、食欲をそそる香り、旬の野菜の旨みが味噌汁に染み込み、味噌と絶妙なハーモニーを生み出す。
味噌汁はコスモだ!
かの鍋の中には小さな宇宙が確かに存在するのだ!!コスモ!!
「コスモ!!」
叫んで、俊輔はハッと我に返った。
まずい、どうやらあまりに浮かれて明後日の方向へ意識をトリップさせてしまっていたらしい。気が付いて、何かを受け取るような形で上げていた両手を静かに降ろすと、俊輔は目の前で味噌汁を飲んでいる小五郎に目を向ける。
と。
ばしゃん。
目に入ったのは、目の前で自分に手を伸ばしている小五郎であった。
唐突の出来事に反応出来ずに居ると、頭に生温い感触。
ついで、シャワーを頭から浴びたように、俊輔の額から生温い液体が眉間から鼻の脇、そして顎へ向かって垂れ落ちる。
「ん?」と声を上げるまでも無かった。
目の前の男は空になったお椀を俊輔に押し付けると、真顔で、「まずい」と低く呟いた。
「味が濃い。野菜の臭みが消えてねぇ。温い。」
それだけ言うと、小五郎は欠伸をしながら、俊輔の横を通り抜けると何事も無かったように玄関へと向かうと何も言わずに出て行った。
バタン、という音が背後から聞こえ、俊輔は押し付けられたお椀を手にしたまま、前髪からぽたぽたと滴る味噌汁を見つめる。
シン、と辺りが静まり返った。
そうして茫然と立ち尽くした俊輔が、ふと我に返ったのは、小五郎が出て行ってからしばらく経ってからだった。
床にできた小さな水溜りを見ながら、俊輔は無意識に口の端を流れている汁をぺろりと舐めてみた。
食堂の味噌汁とまでは行かないが、特別不味くはない…はずだ。
まぁ、しょっぱかったのは確かだが。
ちくしょー、と言いながら、俊輔は味噌汁とともに額に張り付いたにんじんを手に取った。
「ま、初めから上手くいくなんて思ってねえよ。」
ケッと悪態をつきながら、俊輔は味噌汁の水溜りに仁王立ちになり、手を腰に当てながら「上等だ、くそやろー」と呟き、先ほど小五郎が放ったタオルで味噌汁くさい頭をガシガシと拭く。
強くふくと、ふわりと味噌汁の香りが鼻を掠めた。
全く非常識だ。
味噌汁というのは飲むものであって、決して頭から被るためにつくられたものでは無いのに。
「(あのクソヤクザめ。)」
ガシガシと力任せに髪をふく。
まずい、という言葉が頭を何度も過ぎる。
思わず、奥歯を噛み締めた。
俊輔が頭からぐちゃぐちゃになったタオルをするり下ろすと、背後から玄関の扉の音とは違う、木の軋む音が聞こえ、俊輔は慌ててしょっぱい味噌汁と、目から滲み出た、味噌汁よりもしょっぱいものがついた顔をタオルで拭い去ると、バッ、と勢いよく後ろを振り向いた。
すると、俊輔の部屋の向かい側の扉から半身だけ覗いた黒い影が、俊輔の俊敏な動きに身を竦ませるようにビク、と跳ねる。
まるで小動物のような反応に、俊輔が瞳を糸の様に細めると、実質小動物とは言い難い立派な体付きをした生き物が、やはり半身だけドアから身を出して、こちらを見ていた。
「…」
それを見た俊輔は、一瞬「だれ」と呟きかけたが、少し間を置いて「あ」口を開けた。
それから、「いや、違う。忘れていたわけじゃない、うん、ほんと。ほんとだってば。」と何やら言い訳を口の中で必死に繰り返した。
すっかり忘れていたが、この部屋にはもう一人、生物が存在していたのだ。
そいつは、高杉東風という名前の生き物である。
寝起きで俊輔と同様重力に逆らった髪の毛が飛び跳ねていたが、顔立ちゆえかそれほど滑稽にも見えないのが憎らしい。
先ほどから俊輔の異様な雰囲気に気圧されているのか、ドアから出てくる気配はなく、こちらを警戒しているようである。
彼の視線を一身に浴びた俊輔は、彼の妙な行動に思わずうろんな目をしてしまったが、ふと自分の状況に気が付くと、困った様に笑ってみせた。
妙ちくりんたのは自分もさして変わらないと気が付いたのである。
自嘲気味な俊輔の顔をみた東風は、綺麗に整った眉を僅かに顰めたようだった。
そして、俊輔がいたたまれなさから、東風に背を向けようとしたのとほぼ同時に、ぐう、という間の抜けた音が、俊輔の目の前の生物から発せられた。
「ん?」
マヌケな音を発した生物は、扉から覗かせていた顔を下に向けると、音の発生源である自分の腹を不思議そうに眺めた。
その様子を見た俊輔は、呆気に取られて目を丸くしていたが、その緊張感のない音に思わず噴出してしまった。
「なぁ。」
笑いを堪えて緩んだ顔のまま、俊輔が東風に呼びかけると、彼は返事の代わりに目をぱちぱちと瞬かせる。
まるで小さな子供の様な反応に、俊輔は何故だかおかしくてたまらない気持ちになった。
「まずい飯ならあるけど、食う?」
半分、自分を揶揄するような言い方をしたが、俊輔の問いかけに東風は特に考える素振りも見せず、素直にこく、と頷いた。
頷いた東風に、俊輔は間抜けな顔で思わず声をあげて笑ってしまった。
数分後、向かいあわせに座って、味噌汁を飲む東風に「うまい?」と俊輔が聞くと、東風はお椀の中身をじっと見ながら小さな声でボソボソと「まずい…」と呟き、それを聞いた俊輔が「ちくしょう、どいつもこいつも」と苦虫を噛み潰した様な顔をしたのは言うまでも無かった。