禍を転じて福となす
キィ、と慎重に開かれたドアの音が、静まり返った寮内の長い廊下に響く。
俊輔は玄関のドアを数センチだけ開けると、注意深く中を見渡した。
室内は暗く、物音一つしない。
僅かに開いたドアの隙間から廊下の明かりが入り、細い光の筋が暗い室内を割くように伸びる。その光を頼りに、俊輔が訝しげな顔をしながら目を細め、下の方に視線を向けると、そこには見慣れた三足の靴がいつも通り脱ぎ散らかされており、先ほどのおびただしい数の靴は綺麗さっぱりと消えていた。
リビングで蠢いていた集団は無事それぞれの寝床に帰ったらしい。
それを見て、僅かに安堵した俊輔は、それでもまだ警戒したまま玄関のドアを開けた。
部屋の中は静寂に包まれ、奥に見える共同のベランダから月明かりが僅かに室内を照らしている。
俊輔は音を立てないようにドアを閉めると、靴を脱ぎ、忍び足でリビングへ向かった。
もう誰もいないと分かっていても、つい足を止め、覗き込むようにしてしまう自分がなんとも情けなかったが、用心することに越したことは無い。
だが俊輔の心配は杞憂だったようだ。
リビングには誰も居なかった。
相変わらず、その狭い空間には不釣合いな黒皮のソファが我が物顔で陣取っているだけで、特に目に見えて乱れた様子は見受けられない。
リビングの奥にある通武と小五郎の部屋からも、これと言って物音は聞こえない。すでに就寝しているようだ。
それを確認した俊輔は漸く肩の力を抜いて、安堵の溜息を吐いた。
「ふー…このドキドキはある種アトラクション並みだな。」
よかった、よかったと呟きながら、俊輔は額の汗をいい笑顔でふく。
間違ってでもあんな光景はもう二度と見るまい、と心に固く決めていた俊輔は薄暗いリビングを見渡した。
これだけ見ればこの部屋にはなんの変化も見受けられず、先刻の出来事は実は夢ではないかと思わず疑ってしまうが、件の独特の香りが僅かに鼻を掠め、俊輔はたちまち現実に引き戻されたようで、思わず苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。
俊輔は顔を顰めたままリビングを抜けるとベランダの窓を全開にした。
途端に外の冷たい風が、室内の篭った空気に溶け込んでくるように入ってきて、俊輔は澄んだ空気を肺一杯に吸い込んで吐き出した。
暫く換気をしようと窓を空けたままリビングに戻った俊輔は目を細めてソファを見ると
「あとで徹底的にファブってやる…。」
と低く呟いた。
それからミニキッチンに入り、流しの上に取り付けられたスイッチを押すと、頼りないライトがパチと音を立てて、何度か明滅を繰り返すと、狭いミニキッチンがぼんやりと照らしだされた。
その光に僅かに目を細めた俊輔は、ソファの近くに中身の飛び出たスーパーの袋が転がっているのを発見すると、転がり落ちた食材を拾い集め、一つ一つ確認しながら冷蔵庫に放り込む。
リビングでの衝撃映像に、勢い良く袋を投げ捨ててしまったので、10個入りの卵の幾つかがいかにも不憫で形容し難い状態になっていたが、それを除けば特に食材に問題は無いようである。
「ごめんな、にわとり。」
そう言いながら不憫な卵を処分した俊輔は流しの下にある戸棚を空けると中にある調理器具を確認する。
思ったよりも充実している調理器具を満足げに眺めた俊輔は「おお、すげえな」と一人呟きながら使い古された炊飯器を取り出した。
厨房で使う炊飯器の10分の1ほどの大きさに少し戸惑いながら蓋を開ける。
「えーと…タイマー…」
薄暗い光の下で目を細めながら、俊輔は慣れない手つきで炊飯器の設定をし始めた。
時計は既に夜中の一時を過ぎている。
寝静まったルームメイトを起さないように、俊輔は細心の注意を払いながら、朝食の下ごしらえを始めたのだった。
天下、意の如くならざるもの、恒に十に七、八は居る。
虎次郎の言葉が思い出され、俊輔は米をとぎながら「おっしゃるとおり」とつぶやいた。
言って目から鱗が取れたような気分である。
世の中、自分の思う通りに行くことばかりとは限らない。
勿論十のうち七、八というのはあくまで目安であって、その比率は場合によっては変わるのだろう。
だがこの言葉は「それくらいの心構えでいろ」という教えに他ならない。
そう思えば今までの失敗も10のうちの幾つかと思えばなんてことない、という心持ちになってくる。
肝心なのは諦めないことだ。
諦めてしまえば試合はそこで終わりだと安西先生も言っているように、途中で諦めることは「成功する可能性」を自ら無くしてしまうことになるのだ。
だが、それ以上に俊輔を燃えさせる要素が他にもあった。
と、いうのは
「逆に十通りのうち、少なくとも二通りは成功の見込みがあるってことだろ。」
にや、と笑いながら、俊輔はといだ米を握り締める。
そう、世の中上手く行かないことが七、八割というのは裏を返せば、少なくとも二、三割は上手くゆくということなのだ。
大事なことは、そのチャンスを逃さないために、日頃から努力を怠らないということだ。
「俄然やる気でるわ。」
ふふふ、と妙な笑いを零した俊輔は、再びジャッ、ジャッ、と米をとぎはじめた。
薄暗い灯りの漏れる狭いキッチンで夜中に米をとぐその姿は端から見ればなんとも不気味であったが、彼自身は脳内で、ルームメイトが餌付けされ自分のいい様に命令を聞く様を想像して高笑いをするイメージを膨らませることに余念が無かった。
同室者が共同リビングでホモ活動をしようが、血管の切れ易い剣道馬鹿が不当な暴力を働こうが、関係ない。
自分は上手いメシを作って彼等を餌付けることだけを考えればいいのだ。
そんな野望を胸に、俊輔が朝食の下ごしらえを終え、溜まった洗濯物を片付ける頃には、東の空が白み始めた頃だった。
つづく。