禍を転じて福となす

「さっき、管理人室は昔の寮のものをそのまま移築したと言いましたけど、この建物の随所に、昔の寮の資材が使われているんですよ。」

そう言った虎次郎の視線の先には大食堂の高い天井にある大きな梁があった。
昔はよくこういった大きな一本木の梁が使われたが、昨今ではあんなに太い木は無いのだろう。梁が剥き出しになっている民家も少ない。
元は捨てられる予定だったのを、勿体無いと、先代の松下の理事が大食堂を支える資材に加えさせたのだという。

半世紀前からあるこの梁は、ずっと昔の、まだ自分なんか存在していないような時から、この寮を見守ってきたのか、と少し妙な気持ちで俊輔はぼんやりと暗闇に浮かぶ梁を眺めた。

「不思議ですね。」

懐中電灯の頼りない光で照らされた梁を眺め、虎次郎が呟くのを聞きながら、俊輔は黙って頷いた。
虎次郎の言う「不思議」という言葉の意図がいまいちよく理解出来なかったが、俊輔も漠然と不思議だと思ったので、とりあえず頷くことにしたのだ。

梁を見上げたままの俊輔に、虎次郎は「それじゃあ」と声をかけ、俊輔がその声に振り向くと、虎次郎はごく自然な動作で、節だらけの細く、大きな掌を俊輔の頭に乗せた。
それに俊輔が「え」と声を上げるまもなく、その細い掌は俊輔の頭の上を滑るように往復すると、流れるようにそっと離れる。
同時に頭に触れたぬくもりが離れないうちに柔らかな微風が伴い、頭部になんとも言えない余韻が残った。
瞬間、「おやすみなさい」と耳に響く落ち着いた声が頭上から降って来て、目をパチクリとさせた俊輔に、虎次郎はゆったりとした動作で踵を返しながら口を開いた。

「大事な本が落ちそうですよ。」

まだ感触の残る頭に自分の手を乗せていた俊輔は、虎次郎の言葉に「え」と呟くと、同時に、背中のセーラー服巻頭のエロ本を思い出して、慌てて背中に手を回した。
危惧した通りシャツとズボンの間に挟めていたエロ本はいつの間にか捲くれ上がったシャツと一緒に、今にもズボンから抜け落ちてしまいそうになっていた。

「ぎゃーーーーーーーー!!!!」

それに気がついた俊輔は、もう隠す必要も無いのに必死でエロ本をズボンの中に押し込めながら慌てふためいた。
そんな輔の様子に笑いながら、虎次郎は暗い廊下の奥へ進んでいった。
どうしようもない羞恥心が湧き上がってきた俊輔は、暗闇の中、人知れず赤面した。
大人にエロ本を見つけられることほど気まずいものはない。

くそーと愚痴を零しながらエロ本をズボンに押し込め、遠ざかっていく虎次郎の姿を目で追いながら、ぼんやりとした灯りが廊下の端に消えるのを眺めていた俊輔は、暫くそこに佇んだまま暗い廊下を見詰めていた。
虎次郎の履いたスリッパの音が遠ざかって聞こえなくなると、玄関は痛いくらいの静寂に包まれ、大食堂にある大きな掛け時計の秒針がカチカチと僅かに聞こる。
まるでそれが永遠であるかのように、俊輔は真っ暗の玄関にひとりきりでぼんやりと立ち尽くしていた。

虎次郎の細い手の感触がまだ残っている。
それを確かめるように、自分の髪の毛をくしゃ、と掴む。

と。

不意に、遠くから生徒の笑い声が聞こえたような気がして、俊輔は夢から覚めたようにハッとした。
思わず先ほど見上げた梁に視線を向ける。
梁は静かに大食堂の天井に佇んで、俊輔を見下ろしている。

半世紀分。

もしかして自分と同じことを悩んだ生徒も居るんだろうか、と俊輔はぼんやりと梁を眺めた。
目には見えないが、何百人、何千人という古い生徒の想いがこの寮には息づいているようだ。
実際、今この瞬間も数百人の生徒がこの建物の中で思い思いに過ごしている。


俊輔はまた暗い廊下を一瞥した。
耳を澄ませたが、もう笑い声は聞こえない。

それに、俊輔は静かに息を吐くと、次いで目を閉じて大きな深呼吸をすると、「よし」、と呟いた。

それから意を決したように踵を返して大食堂の方へと足を進めた。


ただまっすぐ、自分の部屋を目指していた。
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