禍を転じて福となす


「世の中は十あればそのうちの七、八は思い通りに行かないものなんだそうです。」

言いながら、虎次郎は写真を静かに机の上に置くと、また急須にお湯を入れ始めた。

「若い頃はそれが許せなくて悩んだりもしました。殊に若者というのは意見が違えば衝突もしやすい。時代のせいでもあったんでしょうが。…楽しくないこと、不満なことはきっと沢山ありました。」

「?」

第三者のように自らの過去を話す虎次郎の言葉に、俊輔は思わず首を傾げた。

「でも、その十の中の三の、楽しい記憶が、そういった苦い記憶というのを自然と薄めてくれるんでしょうね…。その頃悩んでいたことが今ではもう思い出せない。かわりに楽しかった思い出は溢れるように出てくるんです。」

そう言って、虎次郎は俊輔を見た。

「楽しかったですよ、とてもね。」

虎次郎の眼鏡の奥の小さな瞳が穏やかな光が宿っている。
それが言葉では言い表せないほど美しく、同時に、笑った虎次郎の顔に沢山の皺が刻まれた。
その顔を俊輔はじっと見ながら、少し安心した。
写真とは違って、心の底からじんわりと暖かくなるような虎次郎の笑みに、力の入っていた身体が解かれるような気持だった。

50年前の彼に、何処か自己投影をしていたのかもしれない。写真で少し泣きそうな顔で笑っていた少年が、今こうして穏やかに笑っている事に例えようの無い感情が湧き上がった。

「…よかった。」

思わず口をついて出た言葉に、俊輔は自分でも少し不思議だと思いながらも意味も無く恥ずかしくなって頭をガリガリとかいた。

と、

「君も。」

落ち着いた声が響き、俊輔が虎次郎を見ると、虎次郎はいつもと変わらない穏やかな顔で俊輔を見ていた。

「君も、きっと楽しくなる。」

そう言ってにこ、と笑った虎次郎を見て、俊輔は頭に手をやったポーズのまま固まると思わず目を瞬かせてしまった。
そして、虎次郎の言葉を脳内で反芻し、理解すると何かが物凄い勢いでせり上がってくるのが分かった。
胸が僅かな痛みを起こし、それが俊輔の頬の辺りまで上がってきた時、俊輔は温くなったお茶を口の中に流し込むと、ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
胸の中に染みて行くように、お茶が流れてゆく。
そして虎次郎の言葉に返事こそしなかったが、代わりに俊輔は力強く頷いてみせた。
それが精一杯だった。


「(…たのしくなる。きっと。)」

虎次郎の言葉を思い返しながら、俊輔はぎゅ、と湯のみを握りしめた。

それを見た虎次郎は「ああ」と何かに気が付いたような素振りを見せて、急須を手に取って、こてん、と首を傾げて見せた。

「お茶のおかわりですか?」

急須を持った虎次郎をが、こちらを見てにっこりと笑ったのを見て、俊輔は自分の手の中にある空っぽの湯のみと、虎次郎の顔を交互に見て、かぁ、と顔を赤らめた。

そして少しはにかんだ様に笑って「いただきます」と、湯のみを差し出したのだった。



それから俊輔は様々なことを虎次郎から聞いた。

この管理人室だけは、当時の寮からそのまま移築したのだ、とか、管理人をしてからもう30十年近くにもなるのだ、とか、実はグリンピースが嫌いということも聞いた。
そんな他愛も無い話で盛り上がって、四回目のお茶のおかわりを貰った時だった。
ふと管理人室のカウンター近くにある年代物の時計を目にした俊輔は飛び上がるほど驚いた。
気が付けば日付けが変わってもう10分ほど経っていたのである。

「げ!!もう明日になってる!!」

気が付かなかった、と俊輔が慌てて立ち上がると、虎次郎も「おや」と目をぱちくりとさせた。

「なんとなんと。楽しい時間はあっという間ですね。私も見回りがあるんでした。」

「え!わー!!そうですよね!!すいません、こんな時間まで!!」

「なんのなんの。お誘いしたのはこちらですから。」

俊輔が大げさに頭を下げると、虎次郎は全く気にした様子もなく丸いお盆の上に急須と湯のみを置いた。
それに気が付いた俊輔が慌てて自分の湯のみをお盆の上に載せると、虎次郎は嬉しそうに「ありがとう」と言って手際よく机の上を片付けはじめた。
そして俊輔が手伝う間も無く、あっという間に食器を片付けてしまうと、カウンターに下げていた「在室中」という札を裏返して「見回り中」という面を出した。
そして年期の入った大きな懐中電灯を取り出すと机の上に置きながらこちらを振り返る。

「それでは、おひらきにしましょうか。」

「はい。」

棚にかかった鍵を一つ取った虎次郎を見て、俊輔が扉を開けて廊下に出ると、それに続いて、虎次郎が小脇に懐中電灯を持って続いた。
管理人室を出た俊輔は暗い大食堂を見ながら、うーん、と背伸びをする。
なんだかんだで一時間以上も管理人室に居たのだと思うと、何か不思議な感じだ。
沢山話して疲れた筈なのに、頭がやけにすっきりとしている。

「…なんか清々しい…。」

俊輔が思わず呟くと、虎次郎は「それは良かった」と頷いた。

「こちらも楽しかったです。またお暇でしたら遊びに来て下さい。」

虎次郎の言葉に俊輔は「はい」と思いっきり頷いた。
俊輔を見て笑った虎次郎は懐中電灯に灯りを付けながら、あることを思い出したように宙を仰ぐと、「そういえば」と呟いた。
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