禍を転じて福となす

「おじゃまします…」

ドアから中を覗きこみながら、俊輔は管理人室に足を踏み入れた。
そこは外から見るのと違い、意外と広いその部屋は、玄関と同じく風合を帯びた木材がオレンジ色の光で彩られており、色合いに嫌味のない、なんとも優しい空間であった。

「どうぞ。」

そう言って、虎次郎がポットから急須にお湯を注ぎながら目の前の椅子を勧める。
俊輔は僅かに緊張しながら虎次郎に進められた椅子へ座ると、そわそわと辺りを見回した。

古びた木の机、書類棚。使い込んであるカウンターに並んだ大きなボードには、部屋割りが細かく記されており、そこには「在室」「外泊」という文字が並んでいる。
置いてあるものは、みな俊輔が生まれるよりもずっと前から使われているのだろうとわかる。
年期の入ったものが多かったが、古臭さを感じないのはきちんと手入れがされているからだろう。
きょろきょろと忙しなく辺りを眺めていると、ふと視界に、一枚の写真が目に入った。
木の額縁におさめられたその写真は時代を感じる白黒写真。
入学式、或いは卒業式で撮られたものだろうか。生徒の集合写真で、見たことのない校舎の前でみな一様に凛々しい顔に袴姿である。

「(いつの、てか、どこの写真だろう。)」

俊輔がボンヤリとその写真に見入っていると、お茶を淹れ終えたらしい虎次郎が、湯気のたった湯のみを俊輔の前に置きながら、にこ、と笑った。

「それはね、今から五十数年ほど前、昭和初期の松下の寮ですよ。」

「え」

俊輔が驚いた様に眼を瞬かせると、虎次郎は先ほどここにいた生徒から貰った菓子を小さな皿に取り分けているところだった。

「寮が創設された際の第一期生の写真です。なかなか良い面構えが揃っているでしょう。」

虎次郎が菓子の乗った皿を俊輔の前に置くのを見ながら、俊輔はポカンと口を空けてしまった。
木造平屋、一階建ての古い寮の前には、袴姿の生徒が…60数名。
もともとは規模の小さな施設だったらしい。
今では、生徒はこの10倍にも膨れ上がり、寮自体も3階建になった。

「またえらい様変わりしたんですねぇ…」

「そうですね。なにせ昔は8畳一間に4人でしたから。」

「8畳に4人!!?」

出されたお茶に手を伸ばしながら、俊輔は驚嘆してしまった。
今では4畳半の個室が4つに6畳のリビング、キッチン、トイレが付いて一室4人である。
想像するに8畳一間に4人はかなり狭い気がするが、昔はこれで普通だったのか。
布団を敷けばギチギチになってしまうであろう8畳4人部屋を想像した俊輔は思わず顔を顰めてしまった。
個室万歳、プライバシー万歳である。

「なんか寝苦しそうですよね…」

「仰る通り。」

俊輔の言葉に虎次郎はさも可笑しそうに笑った。

「成長期の若者ですからね。とにかく狭かった。朝起きたら自分の布団に誰かが入っているなんてザラでしたよ。それどころか冬の寒い日は暖を取る為にわざわざ同じ布団で寝たものです。その頃は今みたいに暖房器具が各部屋に置いていませんでしたからね。」

ニコニコと笑う虎次郎に、俊輔はぱちくり、と目を瞬かせた。

「虎次郎さんて、もしかしなくても松下出身なんですか?」

「そう。そして寮の第一期生でもあります。実はあの中に居るんです。」

虎次郎はくしゃくしゃの顔を綻ばせ、「あれ」と白黒の写真を指差す。
それに目を輝かせた俊輔は「まじっすかぁああ!!」と叫ぶと手に持っていたお菓子を皿に置き、急いで立ち上がるとその写真を手に持って机においた。

「どれ、どれですか!!?」

虎次郎の若い頃の写真ということでやけにテンションの上がった俊輔は写真を見ながら興奮気味に一人ひとりの顔を指で辿る。虎次郎は「さぁ、どれでしょう。」と俊輔の行動に満足げに笑うと一口お茶を飲みながら悪戯っぽい顔をした。
俊輔は真面目な顔をして上の段から順々に辿りながら、目を凝らした。
髪型が似たり寄ったりの生徒が多く、昔の顔らしく一重の若者が多かったが、下段の列の途中で俊輔の指がピタリと止まった。
そして俊輔が確認のために虎次郎の顔を見ようと顔を上げると、虎次郎が頷いた。

「正解。」

ふふ、と愉快そうに笑う目の前の虎次郎と、写真の中の10代の写真を見比べながら、俊輔は目元に面影があるな、と気が付いた。
若い頃の彼は、とびきり男前というわけではなかったが、虎次郎らしく、その顔は優しく微笑んでいる。
だが、今の虎次郎の微笑みとは違って何処か悲しげな笑みだと俊輔は思った。
無理をして笑っているような顔だ。

「…。」

その顔に何か覚えがあって、俊輔は顔を上げた。
誰にも言えない悩みを抱えて、泣きたいのに必死で笑顔を作ったのだとわかる。
そんな50年前の虎次郎に何か感ずるものがあった。

「…虎次郎さんは、寮生活、楽しかった?」

思わず口をついて出た言葉に、俊輔は自分でも少し驚いた。
虎次郎はお菓子をほお張りながらきょとんとした顔をしていた。
その顔を見て、俊輔は途端に恥ずかしくなって慌てて手に持っていた写真を机の上に置くと皿においてあったお菓子をほお張りながら笑った。

「いや!なんでも無いです!はい!いやーこのお菓子おいしいっすね!!」

うへへ、と怪しい笑みを浮かべると、開いた口からボロボロと食べかすが落ちて、俊輔は慌てながらお茶で口の中のお菓子を流し込んだ。

「うぼぉあああああ!!!あぢぃい!!!」

勢いあまって熱いお茶を一気に飲んでしまい、喉が焼けるような感覚に思わず目玉が飛び出る。
あまりの熱さに椅子の上で狂ったように悶絶していると、すかさず虎次郎が冷たい水を差し出してくれた。
それをほとんど奪い取るような形で受け取った俊輔はゴクゴクと喉を鳴らして水を流し込み、喉が冷やされ熱かった喉と胸からスッと熱が引くとゼェゼェと息を切らせながら水の入ったコップを机の上に置いた。

「お、お騒がせしました…」

「いえいえ。」

口の端から垂れたよだれを拭きながら俊輔が白目のまま虎次郎に礼を言うと、彼は穏やかに笑った。
その顔をみて妙に恥ずかしくなった俊輔は俯いたまま残ったお茶を一口のんだ。

妙な勘繰りをしてしまった上、妙な親近感を勝手に感じて、踏み込んだ質問をしてしまった自分を恥じる。

そのまま俊輔は顔を気まずそうに湯のみの中の茶渋を眺めながら早速後悔の念に襲われていた。

と。


「天下、意の如くならざるもの、恒に十に七、八は居る。」

「?」

下げた頭に降りかかってきた言葉に、俊輔が湯飲みを両手に持ったまま、おずおずと顔を上げると、虎次郎は写真に視線を落としたまま穏やかな顔をしていた。
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