禍を転じて福となす
「泣いちまった。可愛いねぇ。」
そう言いながら、小五郎は玄関から少し顔を出すようにして俊輔の走り去って行った廊下を眺める。
それを見た通武は小五郎を怪訝な目で見た。小五郎は制服だったが、上半身は肌蹴たシャツを羽織っているだけで、ひどく寒々しい。だがその肌蹴たシャツからは逞しい身体が見え隠れして、同じ男、殊にスポーツをしている者としては感心せざるおえない。
次いでいつもは後ろに流している赤い髪が下ろされていて、小五郎が少し幼く見えたが、通武にはそれはだらしない格好にしか映らなかった。
「おい、なんだあいつは。いきなり叫んだりして。何かあったのか。」
通武が機嫌悪く小五郎を睨み付けると、小五郎は艶やかに笑って玄関のふちに寄りかかる。
「さぁ。ただイイコトしようって誘っただけだけどな。」
「は?」
「仲間に入れようとして少しイタズラしてやったら泣いて逃げちまった。」
ニヤニヤと愉快そうに笑う小五郎に、通武はますます不可解、というような顔をして、「意味が分からん」と言いながら床に散らばった私物を拾い集めると、小五郎の横へ並び、靴を脱ごうと玄関に入った。
先ほどぶつけた顔がひりひりと痛んで、早く冷やそうと少し急いた様に靴を脱ぐ。その横で、小五郎は中に入る気配も無く、ただ愉快そうにジッと廊下を眺めていた。
そんな小五郎を不審に思いながら、通武は思い荷物を担ぎ直しながら目線だけ小五郎に寄越した。
「いらん迷惑かも知れんが、そんな格好で居ると風邪をひくぞ。」
そう忠告してやると、小五郎は薄っすらと笑いながら「これで良いんだよ」と答えた。
「どうせすぐ熱くなるしな。」
「…?」
通武が首を傾げながら靴を脱いで玄関に上がると、室内は電気も付けず薄暗い。
それを少し妙に思いながら通武が目を細めて灯りを付けようと、スイッチに手を伸ばすと、それを後ろに居る小五郎に制された。
「なんだ。」
いい加減イライラと通武が吐き捨てるように言うと、小五郎は恐ろしいほど色気のある笑みを作って、口を開いた。
「いらねぇ迷惑かもしれねぇけど、お前は入ってきて大丈夫かよ。」
その言葉には、ひどく熱が篭っている。
掴まれた腕を振り払おうと、通武が後ろを振り返って小五郎を睨み付けると、その玄関越しにいつもと違うものを見た。
四人部屋の玄関には多過ぎる靴の数。
先ほどは気にもかけなかったが、今見ると少しおかしい。
それを怪訝な顔をして眺めると、部屋の奥、リビングから妙に甲高い声がくぐもって聞こえた。
ひどく上擦っている声は一人のものではない。
その声が通武の耳に入るのと同時に、ツン、と鼻を掠めた覚えのある匂いに、通武は瞬間、リビングで何が行われているかを察した。
大人数の靴、この匂いの正体、肌蹴られたシャツ。
それは紛うことなく…。
「まぁ、どうしても仲間に入りてぇっつーなら、入れてやっても良いけどな。」
耳元で聞こえた小五郎の声に、瞬間、俊輔が叫んだ理由がやっと分かった通武は、顔の痛みもすっかりと忘れて、体中に鳥肌を立たせていたのだった。
1077号室から再び絶叫が上がった頃、俊輔はげっそりとした顔でヨロヨロと壁を伝いながら安息の地を求めてさ迷っていた。
「ありえねぇ…」
先程の光景を思い出すと、喉の奥から先程胃におさめた夕食が競り上がってくるようだった。
まさかリビングで男だらけの大乱交大会を催しているなんて予想だにしない。
くんずほぐれつで、いくつもの肢体が暗闇の中で蠢く光景に、一瞬何が起こっているのか分からなくなった。
そんな自分の姿に気が付いた小五郎は下に誰かを組み敷いているようであったが、その獰猛な瞳に捕らえられて一瞬身動きが取れなかった俊輔は、伸びてきた腕にあっさりと捕らえられてしまったのだ。
ひどく熱い体温の腕に全身を捕らえられて耳元で「混ざるか?」と言われた瞬間、全身に鳥肌が立った感触が忘れられない。
同時にそこで嗅いだ濃厚な匂いに耐えられず、叫びながら逃げ出したのだった。
「ありえねぇ…あのヤクザ…ぜってぇまともな神経じゃねぇ…無理、まじ無理…」
部屋を飛び出た瞬間、やっぱり無理!!こいつらと仲良くなるなんて無理!!!と涙目で半ば本気で思ってしまうほどには、俊輔には衝撃的な事件だった。
確かに一昨日、性的な耐久テストをすると口にしていたが、まさかリビングで開催するとは思わなかった。
「あーあー…精神衛生的に非常によろしくねーもん見た…ほんと嫌だ…死にそう。」
勿論口直しに、とパニックになりかけた頭で、咄嗟に自分の部屋へ駆け込んでここ最近の癒しとなっていたエロ本を片手に飛び出してきたのは我ながらナイスだと俊輔は自分を褒め称えたが、如何せん男の甲高い喘ぎ声が耳から離れず、エロ本の濡れ場を見ても脳内で再生されるのは男子の声だったのは否めなかった。
重い溜息を吐きながら、げっそりとした顔で、俊輔はエロ本の表紙を眺める。
そこにはセーラー服に身を包んだ可愛らしい女の子の姿。
身体の柔らかさが紙面越しでも伝わってくるようだ。
「…女の子のおっぱいがこんなに偉大だなんて思わなかった…」
女子特有の胸の膨らみに癒され、少しだけ元気の出た俊輔はやつれた顔でヨロヨロと歩くと、いつの間にか大食堂へと出た。
先程まで活気のあった大食堂は既に明かりが落ちていて、明日、明後日と使われる事がないため、いつも薄明かりの付いている厨房も、今は真っ暗になっていた。
それを少々不気味に思いながらも、広い大食堂を見回すと、玄関から灯りが零れているのを見つけた。
「…管理人室…。」
時計を見れば既に十時半を回っていた。
「まだ仕事してんのかな。」
すげぇな、と零しながら、俊輔の足は自然と、優しいオレンジ色の光が零れた玄関へと誘われるように向かっていったのだった。