禍を転じて福となす






「おーい、杉蔵ー。洗濯行こうぜー。」

ダニエルが洗面台から、ルームメイトの名前を呼んだ。
しかし、彼の呼びかけに返事は無く、ダニエルは「あれ?」と首を傾げた。
それから大きな洗濯籠を片手に洗面台からひょっこりと顔を覗かせると、玄関近くの部屋に向かって声を張る。

「すぎぞー。仕事だぞー。」

やや韻を踏んだ自分の呼びかけに少し満足をしながらダニエルは同室者の「杉蔵」という男に呼びかけ続けたが、薄暗い玄関前に部屋の扉は開かれることはなく、同時に返答も無かった。
それにダニエルが少し眉を顰めると、玄関とは反対のベランダ寄りの部屋の扉が開かれ、ラフな格好をした山縣が怪訝な顔をして出てきたのに気がつき、ダニエルは思わず苦笑いをしてしまった。

「なんだよ、カオル。うるせーぞ。」

「や、わりぃ。杉蔵を呼んでたんだけど、返事が無くてさ。」

山縣の声に、振り返りながら申し訳無さそうに頭を掻くと、彼は耳に付けていたヘッドフォンを外しながら一つ欠伸を零した。
手に何やら参考書を持っているところを見ると、真面目に勉強をしていたらしい。
医学科は専門学科なので、普通科などと比べると、勉強量は驚くほど多い。
当初医学科を快く思っていなかったダニエルも、同室の山縣の勉強量を見て、確かに普通科を馬鹿にしたくなるのが分かるわ、と思ったほどだった。
それを阻害してしまったか、とダニエルは少し申し訳なく思ったが、山縣は特に気にした様子も無く、眠たそうな目を少し擦りながらも、目を細めてダニエルを見据えた。

「杉蔵?あぁ…どーせまた例の集まりにでも行ってんだろ。」

「俺も今そうじゃねぇかと思ったよ…。」

そう呟いてダニエルも遠い目をしてしまった。同じ部屋の「入江杉蔵」という男は、妙な趣味が有り、同じ趣味の仲間と夜通し語り尽くす事を生きがいとしているため、こうしてたまにフラっと居なくなってしまうときがあるのだ。
勿論、彼自身は凄くいい奴なのだが、その「趣味」となると周りのものが見えなくなってしまう傾向があるので、こうやって、仕事のことを忘れてしまう時がある。

「帰って来たらリンチだな。」

また欠伸を一つ零して山縣が零すと、ダニエルは「仕方ねぇか。」と小さく呟いて、玄関に籠を持っていくと「あ、」と呟いた。

「靴ねぇわ。間違いなく集会。」

「ほらな。」

玄関の靴を見てから苦笑いを零したダニエルの言葉に、山縣は出てきたついでにキッチンへと入った。何か適当につまむものを物色しているらしく、ガサガサと音が聞こえる。
その音を耳にしながら、ダニエルは玄関の靴の数にまた一つ頭を捻った。

「ん?」

四人部屋の玄関ならば、そこになければならない靴は、四足の筈だ。

「…辰也。」

「なんだよ。」

ひょっこりとキッチンから顔を覗かせた山縣は、今日スーパーで買ったお菓子を持っていた。ファミリー用の特大サイズの封を切らず、そのまま手に持っているのを見て、「まさか一人で食う気じゃねぇだろうな」と一瞬思ったが、それは後だ。

「栄太がどこ行ったか知らねぇか?」

玄関にあったのは、汚く履き散らかした二足の靴だけだった。












山縣がダニエルの問いに「知らねぇよ。」と答えたのと同じ頃、そこから少し離れた1077号室から凄まじい絶叫が響いた。

「!!?」

それは勿論錠をかけられた玄関前の扉に手こずっていた通武にもバッチリと聞こえ、いきなり聞こえた叫び声に、鞄に手を入れた状態でビクッと肩を揺らし、バッと顔を上に上げる。

「な、なんだ…!!」

叫び声が明らかに部屋の中から聞こえて、しかもその声が俊輔の声だと分かった通武は、瞬間サッと青くなった。
単純に考えれば、部屋の中で俊輔が叫ぶほどの事件が起きたと考えるのが妥当だろう。
一体何が、と思う間もなく、通武の脳裏には一週間前の寮長の言葉が思い出されたのである。

「強姦の、被害…!!」

まさかこの部屋に強姦魔が人知れず潜んで居て、中に入ってきた俊輔を無理矢理襲ったのではあるまいか。
そんな想像が頭の中を巡り、思わずゾッとした通武は、俊輔と喧嘩をしていたことも一瞬忘れて、顔を青くすると扉を渾身の力で叩こうと握り拳を作った。

「いと、」

「わぁああああああああああああ!!!!!」

通武が「う」と発音する前に、大きな音を立てて、目の前の扉が開いたかと思うと、中から涙目の俊輔が、何やら手に雑誌のようなものを持って飛び出してきた。
勿論扉の前で待機していた通武が、開いた扉に顔面をぶつけてふっとばされたのだが、俊輔はそんなことにも気がつかない様子で、殆ど突っかけた状態の靴を「ぺったん、ぺったん」と間抜けな音をさせながら走り去って行った。

「お、おのれ…!!」

モロに顔面をぶつけた通武は、衝撃で歪んだメガネを直しながら開け放たれた扉に縋って立ち上がると、俊輔の走り去って行った廊下を睨んだ。

「なんだと言うんだ…。」

ブツブツと悪態を付きながら廊下に散らばった自分の荷物を拾おうと、通武が屈むと、開け放たれたドアの中から「あーぁ。」という声が聞こえた。
その声につられ、通武が玄関を見ると、そこにはニヤニヤと笑った小五郎が立っていた。
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