禍を転じて福となす
夕食を終えて、俊輔は一人、部屋に戻ろうと廊下を歩いていた。
僅かに鼻歌混じりになったのは、気分が良かったからだ。
今日の夕食は楽しかった。
山縣が食器トレイを持って「いいいい一緒に良いか?」と、可哀想な位にどもりながら聞いてきたのを、大笑いしながら受け入れたのは、もう一時間ほど前になる。
特に決まりはないのだが、食事は同じ学科同士で集まって食べることが多かったので、新しい顔が入るのは新鮮だった。
周りの普通科仲間は、山縣が医学科と聞いて、最初はいぶかしげな顔をしていたが、山縣の嫌味の無さに、あっという間に打ち解けた。
「…まぁ、打ち解けたっつーか…なんつーか…。」
思い出しながら俊輔は乾いた笑いを零す。
山縣のさわやかフェイスに心奪われたらしい、そっちの道のクラスメイトが「彼氏居る?」と聞いたのだ。
それにポッと頬を染めた山縣が照れながら「い、伊藤」と呟いて大騒ぎとなった。
勿論俊輔は承諾した覚えがなかったので、瞬間、苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。山縣の脳内は妄想が一人歩きしているきわめて危険な状況であった。
それを指摘しようとした瞬間、周りの連中からサプライズ発言が起こったのである。
『え!?伊藤君は井上君と付き合ってんじゃねーの!!??』
その一言に、俊輔は思わずダニエルと一緒に味噌汁を口と鼻から吹き出してしまい、それが目の前の山縣へ見事にかかった。
もちろんそんな山縣の口から出た言葉は「カオル…てめぇええ…」という底冷えするような怨念の言葉で、問答無用で胸倉を掴まれたダニエルは、口から出ている味噌汁を拭う暇も与えられず、その場は一時騒然となったのである。
なんとも馬鹿らしい理由であったが、食事の時にあんな大騒ぎをしたのは久し振りだった。
必死な顔で弁解をするダニエルや、怒る山縣、囃し立てるクラスメイト。
本当におかしな連中である。
最後の方は、そんな疑惑は誰もが忘れて、他愛もない話で盛り上がった。
ゲイばかりだと言って何処か辟易としていたが、普通の男子と変わらない底抜けに明るい雰囲気。
それが妙に楽しかったのだ。
中庭の桜は盛りを少し過ぎたろうか。
夜風に揺れてまだ花びらが空を舞っていたが、一週間前よりも花は大分散ったようだった。
「一週間か。」
ズボンのポケットに手を突っ込みながら、俊輔はふと立ち止まった。
中庭には、大パノラマで桜吹雪。
松下学園に入学してから一週間。
学校のことや、寮の仕事もなんとなく分かった。友達もできた。クラスメイトとも上手く行っている。
「あとは、あいつらか。」
思い出されるのは、未だきちんとコミュニケーションの取れていない三人の同室者。
俊輔は月夜に照らされて散ってゆく桜を、ぼんやりとした顔で仰いだ。
「…さくらって、案外綺麗なんだなぁ。」
雄大に咲き誇る桜の生命力に魅せられるように、俊輔は黙って佇んだ。
毎年見ていたが、こんなに美しいものだとは知らなかった。
その美しさと、風に散ってゆく潔さに、何故だか胸がいっぱいになる。
花を綺麗だと思ったのは初めてだった。
「…散ったらもう、見れねぇんだよな。」
誰に言うわけでもなく、俊輔はぽつりと零した。
「(――もし、)」
もし奴等と仲良くなれたら、四人で…、いや、ダニエルや山縣を誘って、みんなで花見、なんてのも悪くないな、とヒラヒラと舞う桜の花びらを眺めながら、俊輔はぼんやりと考えていた。
「あれ?」
俊輔が曲がり角を曲がって、部屋の近くまで来ると、部屋の前には見慣れた男が立っていた。
「久坂くんだ。」
どうやら今帰ってきたばかりらしく、制服姿に剣道具を持ち、何やら腕を組んで首を傾げている。
その様子を見て、俊輔は怪訝な顔をしたが、部屋のドアノブに何かぶら下がっているのを見つけて「あれま」と声を漏らす。
「おーい、久坂くんやい。」
彼の名前を呼べば、通武は「ん?」と腕を組んだまま、俊輔の方を見て、僅かに眉を寄せた。
「…お前か。」
「おれだよ。おかえりー。」
上機嫌だった俊輔はすんなりと笑顔が浮かばせることができた。
当然、通武が笑顔を浮かべて「ただいま」なんて言うはずもないので、返事は特に期待せず、俊輔はドアノブを見た。
そこには夕方、俊輔がスーパーで買った食材と、彼の鞄と制服の上着がかけられていた。
おそらく山縣が夕方に置いて行ってくれたものだろう。鍵は渡していなかったので、ドアノブにかけていったのだと分かる。
「いやー、気になったでしょ、それ。おれのなんだわ。」
わりぃね、とドアノブにかけてあった荷物を手に取ると、通武は目を細めて、俊輔が手にした食材を見た。
「…なんだ、それは。」
「何って、明日のメシの材料だよ。土日は食堂閉まるからさ、明日と明後日は自炊しなきゃじゃん。」
言いながら俊輔はズボンから鍵を取り出し、ドアノブの差し込むと、通武が不機嫌そうな声をだす。
「そんなことは知っている。」
「んなら聞くなっつーの。」
カチャン、と音を立てて鍵があく。
それと同時に今度は不満げな声が後ろから聞こえた。
「…お前が作るのか。」
「そうだけど。」
「…。」
「なんだよ。」
明らかに不審な目をされ、俊輔もつられたように目を細めてしまう。
勿論彼の言いたいことが分からないではない。
きっと俊輔が料理を作るということに、一抹の…いやかなりの不安と不満があるのだろう。
「きちんと人間が食えるものなんだろうな。」
「…あのさ、なんでそうケンカ腰にしか話せねーの。」
呟いた通武の言葉に俊輔はついムッとしてしまった。
そんな俊輔に構わず通武は疑心に満ちた目で俊輔と手に持った食材を交互に眺める。
「…お前みたいな奴が料理を作れるとは思えん。」
「じゃあお前はできんのかよ。」
「…俺が出来るとは言ってはいないだろう。」
「なんだ。できねぇくせに文句だけはいっちょ前か。」
馬鹿にしたような俊輔の言葉に、通武もムッとして目を細める。
この流れからして、いつものパターンに成り得ると薄々分かりつつも、もう一言何か言ってやらなければ気が済まない俊輔は、鍵の空いたドアをちら、と見ると、さり気無くノブに手を添えた。
「ご存知ないなら教えて差し上げますけどね、こう見えてこの一週間、お前らのメシは厨房でおれが作ってんですよ。」
嘘は言っていない。
まぁメシを作る、と言っても、もっとこう、広い意味でだが。
「だから少なくとも、毎日毎日木刀ばっか振ってる剣道馬鹿よりはマシなモンが作れますぅ。」
嫌味たらしく言って、おまけにベッ、と舌を出した俊輔は、素早くドアを開けて、逃げるように中へ転がり込むと、すぐにドアの鍵をかけた。
瞬間、ドアに物凄い衝撃がはしって重い音がしたかと思うと、扉越しに凄まじい怒声が聞こえた。
ドアを閉める瞬間、目を吊り上げて、眉間に深い渓谷を刻ませた通武が、鞄から木刀を取り出したのが見えたので、勢い余った通武が閉められたドアにぶつかったのだろう。
「ははは!!みたか!!馬鹿め!!!こういうのを頭脳戦と言うんだ!!どれ、ついでにチェーンもかけてやる。ざまーみろ眼鏡馬鹿!!」
そう言いながらカチャン、とさらにチェーンも掛けると、俊輔は「良い仕事したぁ~」と、爽やかな笑顔で額の汗を拭きながら息を吐いた。
通武相手だと俊輔はどうもカッとしてしまい、その結果喧嘩になることがほとんどだ。
喧嘩になって一方的に災難に遭うのは目に見えていたので、先手を打って逃げる、という術を俊輔は覚えたのである。
とりあえず通武がドアの鍵をぶっ壊して、「御用改めである!!」と押し入って来る前に、食材をキッチンに置いて、どこか安全な場所に身を隠そう、と俊輔は急いで靴を脱いだ。
この時俊輔は慌てていて、玄関にいつもより靴が多くあることを全く見逃してしまっていたのだった。