禍を転じて福となす
「って、もう仕込の時間じゃねぇか。」
ポストの中の郵便物を手にしたダニエルが時計を確認してそう言った言葉に俊輔は遠い世界から帰ってくると、「食堂のおばちゃん!!」と叫んで山縣を突き飛ばした。
厨房の仕込は一秒も遅れてはならない。それはすなわち死を意味する。
同じく夕食当番のダニエルも、起き上った山縣にスーパーの袋を手渡すと、続いて上着を脱いで鞄と一緒に山縣へ押し付けた。
「辰也、俺ら夕食の仕込みの時間だからそのまま厨房行くわ。俊輔の荷物も頼むな。」
そう言ってダニエルは俊輔の身ぐるみを剥がすと、山縣に押し付ける。
厚着だとエプロンがかけられないし、動きづらいため、シャツになる必要がある。
一瞬不満げな顔をした山縣は、俊輔の上着が手渡されると途端に上機嫌になった。
自分のカバンとスーパーの袋を渡しながら俊輔が「わりぃ」と山縣に言うと、シャツ姿の俊輔を前に山縣が「う、薄着…!!」と眼をらんらんとさせたので、すぐに大食堂へと転がり込んだ。
山縣と別れて厨房に向かう途中、ダニエルが困ったように笑いながら俊輔の顔を覗き込んで来た。
「災難だったな、俊輔。」
気の毒そうにそう言われた俊輔は恨みがましい顔でダニエルをねめつける。
「ほんとにそう思ってんのかぁ~?割に楽しんでたんじゃねーかあ~?」
「そんなことねぇって。」
ダニエルは苦笑いをしたが、本心はそうでもないらしい。「意外と楽しかった」と、ゆるんだ顔が何よりも雄弁に語っている。
まぁ確かに災難には違いなかったが、俊輔自身、別段ひどく山縣が嫌なわけではなかった。
「山縣くんが悪いやつじゃないってのは分かったな。変態だけど。」
「そうだろ。いい奴なんだよ、変態だけど。」
笑ったダニエルが、どことなく誇らしげで俊輔はどこか少しうらやましくなってしまう。
本日の自分の同室者の態度と比べれば山縣は優し過ぎるくらいだった。
それに。
「男といえど、好意を全面に押し出してくれるのは、悪い気はしねぇもんだな。」
照れくさく、被害を被ったが、少しだけ嬉しかったのは事実だ。
「まぁいい友達にはなれるかも。」
友達、というフレーズに思わずダニエルが「かわいそうになあ、辰也」と苦笑したが、俊輔も負けじと苦い顔をする。
自慢じゃないがまだ童貞喪失は女の子で失うという俊輔の夢は健在だ。男子と付き合う気はない。断じてない。
そう俊輔が固く決意していると隣のダニエルが「まぁ、でもさ」と言葉をかけてきた。
「辰也のことは俺がきちんとするとして。さっきの匿ってやるってのはマジだから。いつでも逃げて来ていいからな。」
笑うダニエルに、不覚だが俊輔はやはりきゅん、としてしまう。
おもわずトキめいてしまって俊輔はこっそり、まぁ何か間違いがあったとしてもダニエルなら許せるな、とどこか頭の隅でうっかり思ってしまった。
「なるべくなら、お世話にならないようにしてぇけどな。」
そう言った輔にダニエルは「そうだな」と穏やかな顔で頷く。
いつかダニエルの所のように円満にいくことを思いながら、俊輔は小五郎の顔を思い出した。あれだとまだ道は遠いかもしれないが。
次いで、先程の美少年を思い出す。
そこで、はた、と俊輔は気がついた。
「…そういえば、さっきの美少年。」
俊輔が呟きながらロッカーからエプロンを取り出すと、ダニエルが首を傾げる。
「ああ、栄太か?偶然だよな。お前んところの同室者と知り合いだなんて。」
言いながらダニエルは「あ」と声を漏らした。
「あのさ、あいつ冷たい奴に見えるけど根は良い奴だから安心しろよ。ムカつく奴ではあるけど嫌な奴じゃねぇんだ。」
先ほどの栄太の態度を弁解するようなダニエルの言葉に、俊輔は「うん」と頷いた。確かにそれも気になったが、他に何処か心に引っかかるものがあるのだ。
「吉田栄太、って言ったっけ…」
「そうそう。んで、学科は政経科な。」
「あぁ、じゃあ和田君と一緒だな…。」
呟いて、俊輔は口の中でまた「吉田栄太」と繰り返す。
「栄太がどうかしたのか?」
「いや、なんだか。初めて聞いた名前じゃないような気がして。」
そう言って俊輔は三角巾を頭につける。
何故だか知っている名前のような気がしたのだが、如何せんどこで知ったのか全く思い出せなかった。
「まぁ珍しい名前じゃないからな。もしかして俺が無意識に言ってたのかも」
ダニエルの言葉に「そうだな」と同意しながらもどこか釈然としない。
だが悩んでいても食道のおばちゃんは待ってくれないので、身支度の出来た2人は厨房へ入った。
「あ、そういえば」
分担表の確認に入ったところで、いきなりダニエルが真面目な顔をしたのを見て、俊輔が首を傾げると、ダニエルが俊輔の額にそっと触れてきた。
ひんやりとした体温が心地よく、俊輔が「なに?」と聞くと、ダニエルは額から手を離して怪訝な顔をする。
「風邪はもう良いのか。」
至極真面目な顔をしたダニエルに、俊輔はきょとんとしてしまった。
「風邪?」
「あれ?風邪だろ?」
問い返して、俊輔は漸くはっと気がついた。
そういえば今日自分が学校を休んだ理由をダニエルには「風邪」と言っていたのを思い出した。
その意味を漸く理解した俊輔は、湧き上がる衝動に肩を震わせ、思わず声を立てて笑ってしまった。
怪訝な顔をするダニエルに「治った」とは言えなかったが、お前等と居ると、そんなこと忘れてしまう、と俊輔は久しぶりに愉快な気持ちになったのだった。