好死を望まんと欲す



翌日、通武はいつもより少し早く目が覚めた。

いつも6時半から剣道部の朝練があるが、道場は寮のすぐ近くなので6時に起きていれば大抵間に合う。
だが、今日は何故か早く目が覚めてしまった。布団の脇の置いてある時計に目を移せば、まだ五時になるかならないかで、外もまだ薄暗く、夜が明け切っていない事に気が付いた。

通武は一度起きてしまうと二度寝が出来ない性質なので、そのままむくり、と起き上がった。
四月の朝はまだ肌寒い。日中で日が昇ればポカポカとした陽気に包まれるのだが、日が落ちている朝晩はまだ冷える。
通武は薄手の上着を一枚羽織ると、メガネをかけて、水を飲もうと自分の部屋のドアを開けた。

リビングは暗く、物音一つしない。
みな、まだ眠りの中に居る。
この静かな空間を思うと、昨日の騒ぎが嘘のように思えたが、ふと見た壁に、しっかりと黒い弾痕が残って居るのを見て、通武は眉間に皺を寄せてしまった。
それと同時に、昨日の騒ぎの原因となった男の顔を思い出す。
思い出す、と言ってもどこにでもいるような顔なので鮮明には思い出せず、酷く曖昧な残像がモヤモヤと浮かび、それがまた通武の神経を苛立たせた。
思い出そうとする度に、どんどんと本物からかけ離れた造型になる俊輔のボンヤリとした顔を思い浮かべ、目付きが悪くなる。
どんな顔かも思い出せない様な奴のせいで、昨日は酷い目に遭い、今もはっきりとしない顔付きのせいで、どんどんと人間からかけ離れている顔になっている事にイライラとし、思わず弾痕を睨み付ける様にしてしまい、通武はハッと気がついた。

朝にこんなに気持ちが乱れていては、この後の稽古に支障が出てしまう。

「(全く、馬鹿らしい。)」

そう思い、頭を緩く振ってもはや宇宙人の様な形態にまでなってしまった俊輔の顔を、頭の中から一掃した通武は、リビングを横切って小さなキッチンへと向かおうと踵を返した。

そして、あるものが目に入ったのだった。

「…。」

それは綺麗に畳まれた、三人分の洗濯物だった。
自分達の洗濯物がきっちりと畳まれて、リビングの中央にある小さなテーブルに置いてあったのだ。
それに黙って近づいて自分のシャツを手に取ると、それは間違いなく昨日の騒動で部屋に散らかり、皆に踏まれてよれよれになっていた洗濯物で、きちんと洗いなおされ、皺が出ないように伸ばされていた。
手には取らなかったが、小五郎や東風のものも、自分の洗濯物と同様に、綺麗にしてきっちりと畳まれて置いてあった。


「(…あれから、洗濯をやり直したのか。)」


通武が俊輔に手紙を片付けて置くように言い、部屋に戻ると、もう日付けが変わる10分程前だった。それから暫くリビングから話し声が聞こえていたので、恐らく今日になってから部屋に散らばった洗濯物を拾い集め、洗濯場に向かったのだろう。

「…。」

それを黙って見詰めた通武はシャツを手にしたまま、ふ、と玄関の方へ足を運んだ。
半畳ほどしか無い暗い玄関を見ると、俊輔の靴だけが無い。
少し驚いたが、すぐに朝の清掃をしに行ったのだと分かり溜息をつく。
通武が朝練のため部屋を出る頃は、いつも三足しか無いので玄関の靴など気にしたことも無かったが、こんなに早くから出掛けているとは知らなかった。

朝早く清掃の仕事をして、その後食事を作るためにそのまま食堂へ行くのだろう。

洗濯はいつ終わったのだろう。
大きな洗濯籠いっぱいの洗濯物を洗って、干して、乾かすのにどれ程時間が掛かるのか、洗濯をしたことのない通武には分からない。
俊輔は毎日この仕事の量をこなしている。
大した量の仕事ではないと思っていた。

清掃、炊事、洗濯。
それを俊輔が何時からやって、何時に終わるかなんて、通武は考えたことも無かった。

「…。」

綺麗に畳まれたシャツを手に持ったまま、通武はそれから暫く玄関前でたたずんでいた。










「どうしたもんかな…。」

俊輔は、ぼんやりとジャガイモの皮を剥きながら一人呟いた。

朝の朝食の支度をするために、各部屋から集まった沢山の生徒で大食堂は活気に溢れている。
生徒は学年関係無く材料を切る者、野菜を湯がく者、皿を並べる者、など、いくつもの班にも分けられ、そこで与えられた仕事を皆楽しく談話しながらこなしている。
最初は料理などしたこともなかった俊輔も、1週間、朝晩通えば、それなりにできる事が多くなってきたような気がするが、包丁を持つ手はまだどことなくぎこちない。

しかし、今の俊輔の意識は同室者をどう手懐けるかという事に向いていた。
今まで怪我なく無意識にジャガイモの皮を剥いているのは奇跡に近い。
恐らくサボっていると、目敏い食堂のおばちゃんに見付って大目玉を食らうからだろう。


食堂のおばちゃんは怖い。


つい三日前、サボってタバコを吸おうとしていた新入りの一年生が見付って、おばちゃんの雷が落ちたのは記憶に新しい。
彼女の得意な必殺料理人ビンタがその一年の頬にクリティカルヒットし、彼は三メートル程ぶっ飛ばされ、入って間もない一年生がみな恐怖に慄いたのである。
怒られた生徒は恐怖の余り半泣きだった。割とモテそうな顔付きの男だったが、おばちゃんに怒られて半泣きした姿はそれは惨めなものだった。
自分はああはなるまい、と誰もが心に誓ったにちがいない。

「しかし、なーんも思いつかんな…。」

色恋沙汰が駄目なら、次はどうすれば良いのか、と洗濯をしながら朝方まで考えていたが、名案が全く浮かばず、途方に暮れていたのである。

と、丁度その時だった。

「ちょっと。君だよね。伊藤君って。」

後ろから掛けられた声に、俊輔は空ろな目をしたまま反射的に振り返った。
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