覚悟(前編)
「ふぇ…っえっきし!!!…うぃ~」
所変わってこちらは病院の千葉隆平である。
盛大なくしゃみを待合室でしてしまい、その大きさに周りの視線が集まった事に「ずびばぜん」と鼻をちり紙で拭きながらへこへこと頭を下げる。
そのちり紙で拭った鼻の頭には、これまで付けていたガーゼはなく、普段通りの飾り気のない平凡な顔に戻っていた。
そのすっきりとした感覚に、自分の鼻を指で押しながら確かめる隆平は、どこか嬉しそうだ。
折られた鼻は一週間から二週間で完治すると聞いていたが、実際隆平には約二週間の実感は湧いていない。
厳密に言えば一週間と四日だが、あと一日で二週目が終わるのだ。
「もう折り返し地点か…。」
結局九条は今日まで顔を出さなかった。
和田や和仁が口を揃えて「逃亡中」と言っていたが、一体何から逃げているのか分からない。
原因を突き詰めれば、きっとそれは自分や罰ゲームの事にあると安易に予想できるのだが、いかせん自分から「逃げる」理由というのが分からない。
「逃げる」というよりも、彼の場合は「避けている」という表現の方がしっくりくるような気がする。
避けて、顔を合わせずに一ヶ月を乗り切ろうという作戦なのかは知らないが、顔を合わせたくない気持ちは隆平にも分かる。
理由は言わずともがな、土曜の一件だろうというのはいくら鈍感な隆平でも想像がつく。
確かにあれは屈辱的だと思う。
「(おれの顔なんて見たくもないんだろ。)」
だがこのまま残りの二週間も来なかったら、確実に奴は自分の顔を忘れているのではないかと隆平は思った。
平凡で特徴が無いどこにでもいる顔だ。
ウォーリーを探せで言うなら確実にさらりと流される「その他」の容姿。
それなのに隆平の中では、ずっと会っていないのにも関わらず、依然として九条の存在が自分の中で薄れる事はない。
その顔も当然ながら頭にしっかりと焼きついて褪せる事はなかった。
これだから美形は、と苦々しい顔をした隆平はあの嫌味なくらい整った顔を思い出した。
それから、つるり、と自分の鼻を撫でると盛大なため息をつく。
まるで、昨日罰ゲームが始まったかのようだ。
隆平は九条に鼻っ柱を思い切り殴られたことを鮮明に覚えている。
痛みも悔しさも全部。
それなのに鼻の骨折は完治し、もう半分だ、と言われて驚くのと同時に、まだ復讐計画についての手応えがない事に多少なりに焦りを感じていた。
それに加えて、昨日の帰り道に康高に言われた言葉が、頭の中をぐるぐると回り続けていた。
『自分が九条と付き合うことで、自分の知らない誰かを傷つけるかもしれない、と考えたことがあるか?』
昨夜から何度となく繰り返した台詞に、やはり隆平は首を傾げた。
自分の知らない誰かを傷付ける、とは一体何なのだろう。
布団の中で悶々と考えたが答えが見出せず、気が付いたらスズメがちゅんちゅんと朝を報せてくれ、窓から差した朝日に隈だらけの目を細める。
傷付くことは沢山あったが、少なくとも、誰かを傷付けているつもりはなかった。
「…全然わからん…。」
鼻のガーゼは取れて鬱陶しさが半減した分、重い何かが心に圧し掛かる。
それが何か分からないまま、隆平は受付に呼ばれて、質素なつくりの長椅子から腰を上げると、小さく「はい」と返事をした。
「まず聞きたいのは、隆平と仲良くするのは、何か企んでいるからなのか。」
「おい!!病院ってなんだよ!!あいつどっか具合悪いの!?」
身を乗り出して大きな声を出す三浦を眺めて康高は表情を変えないまま「人の話を聞けよ」とぼやいたが、三浦はさらに康高に顔を近づけて声を張り上げた。
「なんか持病!? 大丈夫なのか!?まさか余命何ヶ月とかじゃねぇだろうな!!」
「ツバを飛ばすな。」
至近距離で迫ってくる三浦に、思わず眉間に皴を寄せた康高は目の前の筋の通った小さな鼻を、長い指で、きゅ、っと摘むと「これだ、これ」と呟いた。それにふがふがと言いながら三浦はハッと気が付いたように目を丸くした。
「あ、そっか!!そうらよな、もう折られて一週間以上経つもんら!!」
鼻を摘まれ上手く発音が出来ないが、ホッとしたような顔をする三浦の鼻から手を離して、康高は呆れた様な顔をした。
「持病というのはあれには全く持って縁のないものだ。隆平は健康だけが取り柄みたいなもんだからな。持病があるとしたら馬鹿な所ぐらいだ。」
「あ!!オレと一緒!!」
そう言って摘まれた鼻を擦りながらニカっと笑った三浦を見て、康高は遠い目をする。
「お前が馬鹿なのは百も承知だ。承知しているが、そろそろ俺の質問にも答えろ。」
そう言うとハッと気が付いた三浦は乗り出していた身体を元に戻し、静かに椅子に座ると康高を見る。
「オレに何か企みがあるのか、だっけ。」
呟いた三浦に康高はす、と全神経を目の前の男に集中させた。
これからこの男の一挙一動に目を光らせてどんな嘘も暴いてやる、という心持ちで対峙をする。
だが当の三浦はさしていつもと変わらず、ぐりぐりと大きい瞳を康高から逸らさないまま、不思議そうな顔をした。
「なんで分かったんだよ」
少し首を傾げたままの三浦を見ながら、その言葉に、康高は目を細めた。