覚悟(前編)
身長は九条よりも随分と高いので、その体格差で押し潰されたまま、九条は新聞を熟読する真悟を苦々しい顔で見上げる。
「良いからどけよてめぇ。」
「いや、ガソリンがこんな高騰するなんて誰が予測できたろうか…。」
「てめぇ今仕事中のはずだろうが、なんでこんなとこにいるんだよ、あぁ?」
「これから車の需要が減っては運転免許証も只のお飾りになってしまうな。」
「おい聞いてんのかクソ野郎!!」
「しかし現在社会人の身分証明書として一番普及しているのが免許証だし、やはり取っておいて損はないか。大雅も来年は18だろう。若いうちに取っておいた方が吉だぞ。免許は。」
「宇宙人!!」
「大雅、いつも言っているだろう。宇宙人ではなくお義兄さんと呼びなさい、と。ちなみに仕事をサボっているわけではない。本日中に大阪への出張が決まったので荷物を取りに戻ったのだ。サボっているわけではない、決して。本当だ。信じてくれ。お姉さんには言わないでくれ。」
そう言ってドア付近の置かれたスーツケースを指差したのを見て、九条は胡乱な眼をする。
いつもの可哀相な台詞は聞き流しながら、出張、という言葉だけに耳を傾ける。
真悟が出張、という事はこの店はその間休みになる。
鍵は真悟が管理しているから…、つまり。
「大雅、お前はもう帰りなさい。」
「…。」
つまりは、ここにはいられなくなる、ということだ。
夕刊をたたんで真悟は「よっこいせ」と九条から退くと大きなスーツケースの上に折り畳んだ夕刊を置いてから「あ、よっこいせって言ってしまった。」と呟いた。
それからソファの背凭れに無造作にかかっていた九条の上着を取ると、上半身を起こした九条に投げて寄越す。
それを無言で掴んで、九条は真悟を睨み付けた。
「そんな目で見ても仕方ないぞ。もう決まってしまったんだから。」
ち、と舌打ちをした九条を眺めてやれやれ、と真悟は明るく飛び跳ねた髪を撫で付けながら苦笑した。
九条が何か嫌な事があると、隠れ家にここを尋ねて来る事がたまにある。誰にも干渉されたくない、という時は人間生きていれば誰にだってある。小学生の時から九条を見てきた真悟は、殊に九条がそういった気質であることをよく知っていたし、その理由も知っていた。
彼が持つ華やかな容姿と雰囲気は、沢山の味方と敵を作り、結果的に彼が望まない多くの問題を起こしてしまう。
それ故に、人一倍人間関係で摩擦が起こりやすい九条には心を休めるために、誰にも知られない秘密の隠れ家が必要だった。
逃げ場、というと聞こえは悪いが九条はここを度々訪れる。
ここで誰にも干渉されず、平静さを取り戻すと、九条は人知れず、何事も無かったような顔をして、いつもの生活へと戻っていく。
だが今回はどうやら勝手が違うらしく、九条はいつまでもここに留まろうとしているのだ。
これには真悟も首を傾げた。
「(どうやらいつもとは比べ物にならないほど深刻な理由があると見た。)」
九条はこの三日間、ろくに飯も食わず、この薄暗い従業員用の休憩室に篭って、何か物思いに耽るようにしてボーっとしているかと思いきや、突然イライラするように物に当たったりする。
いつもは見て見ぬ振りをして何も云わず九条の駆け込み寺になっていた真悟も、流石にその奇行が三日も続くと心配になってくる。
二日目に「クスリでもやったか?」と聞いて顔面に思い切り雑誌を投げつけられた際はホッとしたが、三日目になっても出て行かない九条を見てこれは、と顔を顰めた。
落ち着きがなく、精神が不安定で、物思いに耽り、飯も喉を通らないとなると。
「…恋煩い。」
「なんか言ったか。」
「いや。なにも。なにもない。」
ふるふると首を振って答えると九条が怪訝な顔をする。聞こえていなかったのは幸いだった。
青い、と真悟は遠い眼をした。
「(忘れがちだが、この子はまだ17のガキ…。見たところ、ろくな恋愛もしていない。)」
そうぼんやりと思案して九条がのろのろと上着を羽織っているのを見ながら、どこか拗ねたような顔をしているのがやけに幼く見えて、真悟はやれやれ、と溜め息をついた。
「帰りたくなさそうな顔をしている所申し訳ないが、一応お前は未成年なんだ。こんな所にいつまでも置いてやるわけにはいかない。」
一時的な逃げ場としては良いかもしれないが、あまり長くこんな所に置いたのでは教育上良くない。
この少年の素行を知らないわけではないが、教育に遅いも早いもないだろう。
そうして真悟が「ほら、行こう」と促すと、九条は無言で立ち上がる。
それからソファの近くに置いてあるテーブルの上に放って居たケータイを手に取ると、黙ったまま扉の方へ歩いてゆく。
「(聞き分けは良い方なんだよな。この子は。)」
そうして真悟もスーツケースを引き摺りながら九条の後を追った。
従業員用の通路を出て、関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアをくぐると、外は既に日が高く明るくなっていた。
九条がケータイのディスプレイを確認すると、朝の八時半と表示されている。
木曜か、と顔を顰めると、ドアから遅れて真悟が出てきた。
「どうかね、四日ぶりの外の空気は。」
「最悪だ。」
にこやかに笑う真悟の顔を見ながら九条は眉間に皴を寄せた。
その九条の頭をガシガシと撫でながら真悟はドアに鍵をかけた。
「誰かと喧嘩でもしたか?」
「あ?」
唐突に問いかけると、九条は不機嫌さを隠そうともせず、真悟に睨みを効かせながら頭に乗せられた真悟の腕を乱暴に振り払った。
「(図星か。)」
その九条の反応に「素直なやつめ。」と笑った真悟は、至って真面目に、完結に答えた。
「では素直に謝ると良い。」
「はぁ!?」
「自分の非を認めるのはとても大事なことだ。何をそう悩んでいるか知らないが、あまり意固地にならんほうがいい。」
「意固地になんかなってねーよ。」
「悩んでる暇があったら行動に移せ。お前が思っているより、時間はあっという間に流れてしまう。機会を逃すととりかえしのつかないことになる。残るは後悔だけだ。」
そう言うと九条がこの上無く苦々しい顔をしたので、真悟は思わず笑ってしまった。
「良いからどけよてめぇ。」
「いや、ガソリンがこんな高騰するなんて誰が予測できたろうか…。」
「てめぇ今仕事中のはずだろうが、なんでこんなとこにいるんだよ、あぁ?」
「これから車の需要が減っては運転免許証も只のお飾りになってしまうな。」
「おい聞いてんのかクソ野郎!!」
「しかし現在社会人の身分証明書として一番普及しているのが免許証だし、やはり取っておいて損はないか。大雅も来年は18だろう。若いうちに取っておいた方が吉だぞ。免許は。」
「宇宙人!!」
「大雅、いつも言っているだろう。宇宙人ではなくお義兄さんと呼びなさい、と。ちなみに仕事をサボっているわけではない。本日中に大阪への出張が決まったので荷物を取りに戻ったのだ。サボっているわけではない、決して。本当だ。信じてくれ。お姉さんには言わないでくれ。」
そう言ってドア付近の置かれたスーツケースを指差したのを見て、九条は胡乱な眼をする。
いつもの可哀相な台詞は聞き流しながら、出張、という言葉だけに耳を傾ける。
真悟が出張、という事はこの店はその間休みになる。
鍵は真悟が管理しているから…、つまり。
「大雅、お前はもう帰りなさい。」
「…。」
つまりは、ここにはいられなくなる、ということだ。
夕刊をたたんで真悟は「よっこいせ」と九条から退くと大きなスーツケースの上に折り畳んだ夕刊を置いてから「あ、よっこいせって言ってしまった。」と呟いた。
それからソファの背凭れに無造作にかかっていた九条の上着を取ると、上半身を起こした九条に投げて寄越す。
それを無言で掴んで、九条は真悟を睨み付けた。
「そんな目で見ても仕方ないぞ。もう決まってしまったんだから。」
ち、と舌打ちをした九条を眺めてやれやれ、と真悟は明るく飛び跳ねた髪を撫で付けながら苦笑した。
九条が何か嫌な事があると、隠れ家にここを尋ねて来る事がたまにある。誰にも干渉されたくない、という時は人間生きていれば誰にだってある。小学生の時から九条を見てきた真悟は、殊に九条がそういった気質であることをよく知っていたし、その理由も知っていた。
彼が持つ華やかな容姿と雰囲気は、沢山の味方と敵を作り、結果的に彼が望まない多くの問題を起こしてしまう。
それ故に、人一倍人間関係で摩擦が起こりやすい九条には心を休めるために、誰にも知られない秘密の隠れ家が必要だった。
逃げ場、というと聞こえは悪いが九条はここを度々訪れる。
ここで誰にも干渉されず、平静さを取り戻すと、九条は人知れず、何事も無かったような顔をして、いつもの生活へと戻っていく。
だが今回はどうやら勝手が違うらしく、九条はいつまでもここに留まろうとしているのだ。
これには真悟も首を傾げた。
「(どうやらいつもとは比べ物にならないほど深刻な理由があると見た。)」
九条はこの三日間、ろくに飯も食わず、この薄暗い従業員用の休憩室に篭って、何か物思いに耽るようにしてボーっとしているかと思いきや、突然イライラするように物に当たったりする。
いつもは見て見ぬ振りをして何も云わず九条の駆け込み寺になっていた真悟も、流石にその奇行が三日も続くと心配になってくる。
二日目に「クスリでもやったか?」と聞いて顔面に思い切り雑誌を投げつけられた際はホッとしたが、三日目になっても出て行かない九条を見てこれは、と顔を顰めた。
落ち着きがなく、精神が不安定で、物思いに耽り、飯も喉を通らないとなると。
「…恋煩い。」
「なんか言ったか。」
「いや。なにも。なにもない。」
ふるふると首を振って答えると九条が怪訝な顔をする。聞こえていなかったのは幸いだった。
青い、と真悟は遠い眼をした。
「(忘れがちだが、この子はまだ17のガキ…。見たところ、ろくな恋愛もしていない。)」
そうぼんやりと思案して九条がのろのろと上着を羽織っているのを見ながら、どこか拗ねたような顔をしているのがやけに幼く見えて、真悟はやれやれ、と溜め息をついた。
「帰りたくなさそうな顔をしている所申し訳ないが、一応お前は未成年なんだ。こんな所にいつまでも置いてやるわけにはいかない。」
一時的な逃げ場としては良いかもしれないが、あまり長くこんな所に置いたのでは教育上良くない。
この少年の素行を知らないわけではないが、教育に遅いも早いもないだろう。
そうして真悟が「ほら、行こう」と促すと、九条は無言で立ち上がる。
それからソファの近くに置いてあるテーブルの上に放って居たケータイを手に取ると、黙ったまま扉の方へ歩いてゆく。
「(聞き分けは良い方なんだよな。この子は。)」
そうして真悟もスーツケースを引き摺りながら九条の後を追った。
従業員用の通路を出て、関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアをくぐると、外は既に日が高く明るくなっていた。
九条がケータイのディスプレイを確認すると、朝の八時半と表示されている。
木曜か、と顔を顰めると、ドアから遅れて真悟が出てきた。
「どうかね、四日ぶりの外の空気は。」
「最悪だ。」
にこやかに笑う真悟の顔を見ながら九条は眉間に皴を寄せた。
その九条の頭をガシガシと撫でながら真悟はドアに鍵をかけた。
「誰かと喧嘩でもしたか?」
「あ?」
唐突に問いかけると、九条は不機嫌さを隠そうともせず、真悟に睨みを効かせながら頭に乗せられた真悟の腕を乱暴に振り払った。
「(図星か。)」
その九条の反応に「素直なやつめ。」と笑った真悟は、至って真面目に、完結に答えた。
「では素直に謝ると良い。」
「はぁ!?」
「自分の非を認めるのはとても大事なことだ。何をそう悩んでいるか知らないが、あまり意固地にならんほうがいい。」
「意固地になんかなってねーよ。」
「悩んでる暇があったら行動に移せ。お前が思っているより、時間はあっという間に流れてしまう。機会を逃すととりかえしのつかないことになる。残るは後悔だけだ。」
そう言うと九条がこの上無く苦々しい顔をしたので、真悟は思わず笑ってしまった。