覚悟(前編)
罰ゲームが始まって、九条は自身に常々疑念を抱いていた。
はたから見れば知らない奴と付き合うというのは結構な罰ゲームだ。
しかも、男ときたものだ。
和仁は冗談のつもりでこのゲームを企画したことは九条も理解していた。
騙された奴を笑い、楽しめれば、あいつはどうでも良いと思っている。そして自分はそれを疎ましく思いながらも、相手を騙しながら他の連中と同様に笑ってやれば良かった。
後は一ヶ月それとなく過ごして終わりにすれば、それで良かったのだ。
それなのに、と九条は煙草を咥えた口の端から立ち昇る白い煙をぼんやりと眺めていた。
なぜこうも、心を掻き乱すように、あいつの顔ばかり思い出されるのだろう。
ついて離れない。
声、顔、言葉、仕草、視線。
ふとした拍子に脳裏をかすめる面影に例えようの無い感情が湧き上がって、九条はぞっとする。
疑念を抱いたのは、和仁へでも、この状況でも、勿論あいつでもなく。
他でもない自分にだった。
自分の行動に、言葉に、気持ちに。
あの少年に接することで、自分から生み出される奇妙な感覚に、九条は整理の付かない状況でただ混乱して、それらを消化しきれないまま、もどかしい気持ちで気が狂いそうになるのを必死で耐えた。
「(気持ち悪ぃ。)」
ぞわ、と背中にせり上がる「何か」に身震いをする。
自分の行動も、言葉も、気持ちも。何もかもが恐ろしく奇怪で、気味の悪いものに思えた。
「(気持ち悪ぃ。)」
それからチラ、と頭を掠めた間抜け面に、九条は反射的に目の前の机を蹴り飛ばした。
机の上に乗った麻雀牌が、音を立てて床に散らばる。
それに驚いた他の客が、顔色を悪くしてそそくさとその近くから遠ざかる姿が、余計に九条の気持ちを逆撫でた。
「気持ち悪ぃ。」
言葉にして、いよいよ九条は心に嫌悪感が溢れて止まらなくなる。
そうしてノロノロと立ち上がると薄暗い店内の奥へ、九条は重い足を引きずっていく。
土曜からかれこれ三日は外に出ずこの、カビ臭い店に厄介になっている。
店主が顔見知りで何も言わないことが救いだった。今は誰にも会いたくなかったし、見つかりたくなかった。
薄暗い店の中を歩きながら九条はふと思う。今は昼時なんだろうが、昼でもここは薄暗い。
まるでずっと夜のようだ、と不気味にぼんやりと光る照明を眺めた。
ひどく居心地が良くて、恐ろしい。
それでも、太陽の下の明るい屋上よりは数倍もマシだ、と九条は暗い店内の奥に溶けるようにして消えた。
「いやぁ、参ったよ、やっくん」
「参ってるのはこっちなんですが。大江先輩。」
どいて下さい、とフライパンを片手にした康高の眼鏡が怪しく光るのを見て、和仁は「怒っちゃいやん。」とウインクを飛ばした。それを綺麗に無視した康高をよそに、周りにいた数名の女子が流れ弾に当たりバタバタと倒れた。
授業中に和仁が康高にちょっかいを出しに来るのはもう通例とされており、もはや教室に和仁がいても1年3組のクラスメイトは特に気に留めなくなっていた。
現に今も調理実習の真っ最中で和仁が康高のグループのサラダ用のきゅうりを切っていても誰も疑問には思わずに自分の班の料理を進めている。
頼みの綱の教師は見て見ぬふりを決め込んでいる。
心の中で「使えない」と悪態を付く康高の真横で、当の和仁は家庭科室に備え付けてあったエプロンと三角巾を勝手に拝借して唇を尖らせていた。
「だってさぁ、きゅうり5ミリ幅に切るとか超絶に難しいんだもん。大体きゅうりとか突っ込むのには使った事はあるけど、切ったことないんだよね。だからさ~オレも千葉君とかみたいなのがいい~!!」
そう言って切り口は入っているが繋がったままのきゅうりを康高に差し出すと、調理台でせっせとハンバーグのタネを丸めながら、ぺたぺたと両手に往復させて空気を抜いている隆平と三浦を指差した。
「いやなんかもう、帰って貰えませんかね、ほんと。」
そのきゅうりを同じ班の女子に渡してから、康高は和仁の目を見ずに手に持っていたフライパンを火にかける。
「そんなこと言わずに一緒に食べよーよぉ。」
「余分な材料は有りません。残飯で良いなら排水溝の横に有りますから勝手にどうぞ。」
そう言って指差された方向を見て顔を顰めた和仁は「いいもん、吉野さんから分けて貰うからぁ。」と言ってニコニコ笑いながら和仁のきゅうりの尻拭いをしようとしている女子に同意をも求めて、女子の顔を赤くさせていた。
それを見た康高は苦々しげに顔を歪ませると、フライパンに油をしいていく。
今週に入ってから初めての赤狐の登場に、康高は苦々しげに顔を顰めてしまった。
ようやく三浦の存在に慣れはじめて生活が安定して行くと思った矢先の出来事だった。
土曜の一件で虫唾が走るほど嫌いになっていた人物が、ヘラヘラとした顔で現れたのを見て、康高は衝動的に手に持っていた包丁を同じグループの男子へ手渡した。
どの面下げてここへ来たんだ、と和仁に包丁を向ける自分を想像して、洒落にならないと冷静に判断した結果だった。