決戦後

「誰に向かって口を聞いているのかな、隆平君は。俺は別にお前が一晩夜露に濡れようが構わないんだけど」

「ぎゃあああん!!ごめんなさい康高さぁああん!!」

笑う康高に必死で縋り付く隆平に、分かったからさっさと上がれ、と窘められて、隆平は康高にしがみ付きながら玄関に入った。
モダンな作りの玄関に入ると、木造建築特有の木の匂いがふわ、と香って隆平は康高の腰辺りに張り付き、引きずられる格好のまま、「落ち着くぅ~」と顔を緩ませる。

子供の頃から馴染みのあるこの家は隆平にとって第二の実家だ。

「あらおかえりなさい、隆平ちゃん。」

康高が丁度隆平を体から剥がしにかかっていると、奥から由利恵が出てきて、隆平がその声にパァアと顔を明るくする。

「ただいま由利恵さん!!突然ごめんなさい!!」

来客がある場合はそれなりの準備もあるだろうに、突然押しかけた事に隆平が詫びると、由利恵はニコニコと笑って首を横に振る。

「良いのよ。隆平ちゃんなら深夜でも早朝でもいつでも大歓迎。でも一つだけ御免なさいね、今来客用のお布団をクリーニング屋さんにお願いしてあるの。だから今日は康高と寝てちょうだいね。」

そう言われて隆平は「全然良いです!!」と元気よく返事をする。
その二人の会話を聞きながら、康高はどこか遠い目をする。
客用の布団を洗濯屋に出してあるというのは真っ赤な嘘だ。

先ほど父と母に隆平が泊まりに来ると報告をした際に、何故か息子を放って、二人してヒソヒソと密談をし出したのだ。
その怪しい夫婦に康高が「おい」と話し掛けると、父が真面目腐ってこほん、と咳払いをして、とんでもない事を口走ったのだ。

「康高。由利恵さんと話し合った結果、今うちの客用布団はクリーニングに出しているという事に決定したよ。」

「決定ってなんだ。」

「だから今日は君の布団に隆平君を一緒に寝せる様に。」

「康高、替えのシーツは戸棚の上から三番目にあるから。夜明け前にお風呂も用意しておくわね。」

「いらん気遣いをすな。」

康高は痛くなる頭を抱えたが、頑として客用の布団は無いと言い張る二人に折れて、今に至る。
つくづく変な親だ、と康高が呆れ返る。
しかし隆平に特別な想いを寄せている自分に薄々感づいているらしい両親は全く偏見を持たず、むしろ応援してくれていた。
この両親でなければ自分は今頃どうなっていたか分からない、と康高は本気で思っている。心から感謝しているの事実だ。

しかし、隆平が泊まりに来るのは久し振りだから、と本人より張り切るのはやめてほしい。
両親から逃げるようにして居間から出ようとした康高の耳に、両親の「キセイジジツ」という妙な単語が聞こえてきて、康高は勢いよく居間の扉を閉めたのだった。


そんなことを思い出し、康高は八つ当たりするかのように隆平の尻を蹴って、風呂へと放り込んだ。
八つ当たり半分と気遣い半分で、きっと疲れているだろうから、とりあえず汗でも流すと良い、という康高の気持ちだった。
しかし風呂場へ押し込められた隆平が熱い風呂好きな比企家の湯船の温度に悲鳴をあげたのが聞こえてそれが失敗したことに気が付いた。

「43度って人が浸かれる温度なの?」

「あれくらいじゃないと生きている意味を味わえないだろ。」

「ほかにもあるだろ、絶対!」

風呂から上がって髪を乾かす隆平は、風呂の熱さに不機嫌ではあったものの、普段通りに康高に接し、肝心の今日の話を一切持ち出さなかった。

その態度を不思議に思ったが、無理矢理話させる様な事でも無く、康高も普段通りに振るまった。
ベットではしゃいだり、エロ本を探そうとする隆平の首根っこを掴んで頭に一発鉄拳を食らわせると「鬼!!」と喚いて突っかかって来る。
そしてじゃれるように攻防戦を繰り返せば、隆平はいつもの様に間抜けな顔で康高に笑うのだ。

辛い事があったら電話をする、と言っていたくらいだ。
何時間も待って苦では無かったか。
思わぬ喧嘩に巻き込まれて辛くなかったか。

聞きたい事は山の様にあるのに、何も話してくれない。
近くにいるはずの隆平にどこか距離を感じた康高は、先ほど感じた焦りの様な感情がまたじわり、と胸に広がるのを感じて眉を顰めた。

二人してじゃれている間に、日付は既に変って、日曜となっていた。
それに気が付いた康高は隆平をベットに放り投げた。

「もう寝るぞ。」

そう言って自分も布団に潜り込む。
嬉しそうに笑いながら布団に滑り込む隆平を眺めた康高は部屋の電気を消した。

「康高」

暗闇になった部屋の中、すぐ隣から隆平の声がして、康高は「なんだ」と答える。
気配で、隆平がこちらを向いたのが分かったが、康高は仰向けで目を閉じたまま開くことはなかった。
感じる気配から真面目な顔をして、暗闇にじっとしている隆平が見えるような気がする。それから、声を潜めた、吐息のようなか細い声が耳に入った。

「今日な、すげぇ疲れた」

「あぁ」

そう短く答えると、隆平は続けるようにしてぽつぽつと零してゆく。

「…嫌な事もいっぱいあった」

「あぁ」

「わかんないことも沢山あった」

「…あぁ」

「腹立って、分かんなくて、嫌で、ムカついて。…なんか、寂しかった。」

「…あぁ」

「でも、さっき帰ってさ、親父とか、お母さんとか、紗希とか見たら、忘れちゃった。」

「…」

「お前の顔見たら、そういうの全部吹っ飛んじゃったよ。」

そう言われて、康高は思わず目を見開いた。
それからゆっくりと隆平の方を見る。眼鏡を外してよく見えない隆平の顔。
前髪がさら、と流れてその隙間から、闇に浮かんだ隆平の頭が微かに見えた。

間違えていなければ、隆平は笑っていたようだった。

その隆平の顔を見て、何か言い知れない感情が湧き上がって、不覚も目頭が熱くなった康高は無意識に隆平の頭に手を伸ばした。
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