決戦は土曜日(後編)
「困った。」
空も黄昏に染まり始めた頃、飽きることのない妄想に耽っていた隆平は、ぽつりと一人呟いた。
桜町駅前は昼間よりもカップルが増え、行く人行く人が甘い空気を醸し出している。
それもこれも、夕焼けに包まれて、ビル、人、港、はたまた近くの大きな観覧車が、なんともロマンチックな景色になっているのがいけない。
それは幻想的で絵画のような、と称しても過言ではなかった。
そんなロマンチックな夕暮れの町を空ろな目で眺めながら、千葉隆平は人知れず、窮地に陥っている。
美しい夕焼けと、流れる人ごみを目で追いながら何とか気を紛らわそうとするが、こればかりは我慢云々という訳にもいかない。
この生理現象という名の催しばかりは。
「…困った…」
ひく、と眉根を寄せて難しい表情をする隆平の顔は、どこか鬼気迫るものがある。
それもそのはずで、気になりだしてから、かれこれ二十分は経っている。少しばかりは我慢出来るだろうと踏んでいたが、思い起こせば手洗いには朝行ったきりだ。
というのも、桜町駅前に来てからは、この場所を離れてはいけないという心持ちで、一度も用足しができなかったのだ。
だからなるべく我慢はするつもりでいた。
だが、一日中お天道様の下で待っている隆平を心配したのか、二時間程前から、康高のメールで「水分はこまめに取るように」という指示を馬鹿正直に聞いてしまったのがいけなかった。それが燻る炎を大きくしてしまう羽目となったのである。
人として、我慢もそろそろ限界と言ったところだった。
「限界を超えると破裂するってマジなのかな…」
我慢し過ぎて朦朧としてきた意識の中でふと恐ろしい想像が頭をよぎる。
そうして、覚束無い動作でケータイを確認すると隆平は低く唸った。
「…九時間…」
時計は六時半を回っていて、隆平がここで九条を待ち始めてから九時間が経過していたことを表していた。
九時間。言葉にすると一言で終わってしまうが、随分と長い時間待ったものだ。
高速の夜行バスに乗ったら東京から青森まで行ける時間だ。
今日一日で色々な事があった気がするが、残り半分は殆ど妄想をして過ぎてしまった。
そうして約四時間近く、隆平は持ち前の乙女思考で、理想の彼女との出会いから結婚までの流れを一通りシュミレーションし終えたまでは良かったが、ふと気がつくと辺りは夕暮れ。
そして、覚えのある感覚に一気に現実に引き戻されたのである。
「我慢は…身体に毒…」
だがしかし、もし今席を立った間に九条が来てしまったら…。
そう思うと、ソワソワとしつつも動く事がなかなか出来ない。
そこでどうにか気を紛らわすことができないものかと、辺りをきょろきょろと眺めるが、意識すればするほど我慢し難くなってくる。
「くそ…ここで負け戦になるか…!!」
そう呟きながらも、どんどん限界は近くなってくる。
それに酷く敗北感を覚えた隆平は、自分に言い聞かせるように心の中で喝を入れる。
良いのかおれ!たかだか生理現象如きで、三年いると誓ったこの場所を安易に離れてそれでお前は満足なのか!!と隆平は自身に渇を入れる。
ここで易々と便所に走り、敗走の将と成るのか!否!
確かに色々限界は近いが、これも修行のうちと思えば良い。
我慢は大事!頑張れおれ!心頭滅却すれば火もまた涼し!
かの徳川家康だって…!
家康だって…。
…。
教科書の見慣れた顔を思い出し、隆平の頭の中で何かが切れる。
「いや、トイレぐらい行っただろ。」
急に冷静になった隆平は、赤い夕日を遠い目で眺め、何か悟りを開いた様な顔になった。
「無理なもんは無理だ、うん。」
気持ちの良いほどさっぱりとした答えを出したのは、我慢のし過ぎで所謂「プッツン」をしてしまったためであった。きっぱりと断言すると、隆平はいそいそとベンチを立った。
大体九時間も持って用足しに立っただけで怒鳴られるのだとしたら、それこそ鬼ではないか。それにそんな都合よく現れるものか。
直ぐ戻ってくれば何の心配もない、と隆平は幾分楽観的な思考を巡らせた。
「(大体、九条に殴られるより何より、おれは自分の体の方が今は大事だ…!)」
隆平は自分にそう言い聞かせると、性急に鞄を抱え、足早でベンチを立ち去ったのだった。
「あれぇ?」
店内で素っ頓狂な声を上げた和仁に、虎組のメンバーが一斉に視線を寄越した。その視線の先には隆平の姿。
その隆平が、なんとベンチから立ち上がり、駅構内に向かっているではないか。
「うそ、まさか帰るつもり?」
そう言ってガラスに額を押し当てる和仁の後ろから、三浦が目を細めて「なんか目が血走ってないっすか」と呟いたが、和仁はそれに全く耳を貸そうとせず「残念」という顔をして、駅の中へ消えていく隆平を名残惜しそうに目で追った。