宣戦布告




それはまさに夢心地だった。
ふわふわと身体が浮いているような感じがして、とても気持ちが良い。
朦朧とした意識の中で、隆平は覚醒しつつあったが、そこが自分の教室であると信じて疑わなかった。

(ああ、いい気分だなぁ…。)

「おい」

(しかもなんか暖かいなぁ。ふわふわする…。)

「おい」

(もうかなり寝たよな。次の授業なんだっけ?まあいいや。康高が起してくれるだろ…もうちょっと寝てよう…。)

そう思い、隆平が再びまどろみの中へ意識を浸透させようとした。
その時だった。

「おいっ!」

「ぎゃあ!!?」

耳元に響いた大きな声に驚いて、隆平は叫び声を上げながらバッと起き上がった。
突然の事に隆平は天変地異が起きたのかと混乱し、まだ覚醒しきっていない頭を必死に動かしてあたふたと周りを見渡した。
地震ではない。雷でも火事でも親父でもない。
それを確認すると、隆平は深く息を吐いた。

「なんだよ康高驚かすなよ…」

「あぁ?」

機嫌の悪そうな、聞き覚えはあるが、幼馴染みよりももっと深く耳に残る様な声色に、隆平はあれ?と首を傾げて目の前の人物を見た。

「…」

「…」

沈黙して、まじまじとその顔を見る。
そして、目の前にいるのが眼鏡をかけている見慣れた友人ではなく、虎の毛皮を連想させる金色と黒を基調とした髪に、嫌味な位整っている顔立ちが視界に飛び込んできた瞬間、隆平は完全に目が覚めた。

「ぎゃああああ!!!出たああああ!!!!」

顔を真っ青にして絶叫しながら早くも逃げ腰になる隆平を他所に、彼を覗き込むようにしてしゃがんでいた九条は、まるで化け物みたいな扱いを受けてムッとした。
そんなことには全く気が付かない隆平は慌てて辺りを見回した。
改めて見れば今己のいる場所は一年三組の教室ではなく、旧館にある空き教室だった。
よく不良のたまり場にされている所で、壊れた備品が数多く置かれている。
隆平が寝転んでいたのも使われなくなった運動用マットだった。
なんでおれはこんなところに、と必死に思い出そうとするが、最後に脳裏に焼き付いているのは歴史担当の教師の冴えない丸眼鏡の顔だけで、この男との接触はない。
つまり、

「おれ、誘拐されたのか…」

隆平が青ざめて呟くと、九条はますます不機嫌な顔になった。誘拐という言葉が勘に触ったらしい。

「…許可は貰った。」

誰にだよ、と隆平は顔をしかめたがそんな事を聞いている場合ではない。
これは昨日に引き続いての緊急事態。
隆平は昨日この男に鼻を折られたのだ。
そんな人物と再び二人きり。危険極まりない。
隆平は腰を引いてなるべく九条と距離を置こうと後退りをする。

「お、おれに、何か用ですか。」

警戒しながらも、隆平はつとめて冷静に聞いたつもりだったが肝心な所で声が震えてしまった。
思い出したように、鼻がズキズキと痛み出す。
戦う、と言ったがこんなに突然機会が巡ってくるとは思わなかった。
しかも、二人きりという最悪な状態で。

完全に怯えている様子の隆平を眺めて、溜息をついた九条は、スッと手を上げた。
その動きに過剰に反応して肩が飛び跳ねたのを情けないと思いながらも、隆平はなんとか目だけは逸らさないようにつとめる。
しかし身構えた隆平を他所に、九条の手はちょうど隆平の顔の高さで止まった。
そしてその人差し指が隆平の口を指した。

「よだれ。」

呟いた九条の顔は真顔だった。
そして言われた隆平は、真剣な顔なまま「よだれ」という言葉を頭の中で反芻してから、目を点にする。

「よだれ?」

隆平が訝しげな表情で問うと、九条が頷いたので、隆平は試しに親指で口元を拭ってみた。確かに寝ていた時、大量に体外へ放出されたよだれが、まだ隆平の口の回りにべったりとついていた。
それを確認すると、隆平は学ランの袖で残りのよだれを拭いながらさらに怪訝な顔をする。

「…まさか、用事ってこれじゃ…。」

「んなわけねぇだろ。」

冷静に突っ込まれ、ですよねぇと呟いた隆平は身体の力が抜けるのを感じた。

「ここ座っていいか。」

続けて九条が調子を変えずマットの端を指差したので、隆平は思わず「あ、どうぞ」と掌を見せて勧めてしまった。

「…お前、周りから危機感ねえって言われんだろ。」

「え!?いやー、どうでしょう。」

九条の呆れたような物言いに、隆平の脳内には眼鏡の少年が深く頷きながら「その通り」と言う姿が思い浮かんだ。

「うるさいなあ、わかってるよ康高。」

「は?」

「いえ、こっちの話です。」

脳内の康高がジェスチャーで離れるように指示を出してくるので、隆平はできるだけ九条と反対方向のマットの端へ寄り、丁度2人の位置関係はベンチの端と端に座る形となった。
膝を向かい合わせるよりは幾分かましだ。
隆平がマットに腰を降ろした九条の横顔を訝しげな表情で見つめていると、その視線に気が付いた九条が呆れたような顔をした。

「そう構えんなよ。」

「か、加害者と二人きりなら誰だって構えるとも思いますけど…。」

「お前が先に鞄を俺に投げたんじゃねぇか。」

「それは先輩がおれを侮辱したからだ。」

昨日九条から言われた言葉を思い出すと、隆平から恐怖が薄れ、怒りの感情が強くなる。
この男を心から憎いと思えた。
そんな隆平を眺めると、九条は僅かに眉をひそめて、どこか気まずげに頭をガリガリとかきながら小さな声で呟いた。

「いやまあ…それに関しては…悪かった。」
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