杞憂の日







「おかえり~和仁!」

「…タダイマ…?」

ん?と和仁は開けたドアを一回締めて、玄関の表札を確認する。間違いなくそこには「九条」の文字。そこから和仁は首を傾げて、再度玄関のドアを開けた。勝手知ったる九条家のリビングから、新田にった篤史あつしが顔を出してにっこりと笑っていた。

「ビビった~。一瞬入る家間違えたのかと思った。それか九条がおかしくなったのかと思った。ホラーなこと止めて⁉」

悪い意味でドキドキとする心臓を押さえ、和仁が青ざめた顔で言うと、篤史がニヤァと人の悪い笑みを浮かべて、玄関に佇む和仁に向かって手招きをする。

「九条がおかしくなってる、ってのはあながち間違いじゃないぜ。」

表情筋を痙攣させて、うふ、と喉から空気を漏らしながら、明らかに笑いを堪えている篤史に、和仁は頭に?マークを沢山浮かべながら、靴を脱いで九条宅へとあがった。
玄関には、自分の他、四足分の靴が並んでいる。一足は女性のものだ。
それから和仁は、己の手に持っていた九条の靴を思い出し、玄関に置いた。

「何?その靴。」

篤史の問いかけに、和仁は「あ」と声をあげた。

「そうだった。おかしいわ、確かに。学校から上履きで帰ってきてんだよね、九条。」

それを聞いた篤史がヒャー!と身体の上半身を廊下へ投げ出してゲラゲラと笑い始めた。それを「ワア…楽しそう…」と横目で見ながら、和仁が廊下からリビングに向かうと、果たしてそこには。

「九条、大丈夫?お水持ってこようか?」

「なぁ、ここお前ん家だけど、頼むから吐くならトイレで吐けよ〜、九条。」

怜奈と佐々木ささき慶介けいすけに看取られ、リビングのローテーブルにジョッキを持って突っ伏したままチーン、とご臨終になっている九条の姿があり、これには和仁も篤史に倣って、廊下に吹き飛んで笑い死んだ。


事の発端はつい数十分前の出来事だった。

楠木くすのき怜奈れなは、「とあるもの」を手に、九条邸の門前で想い人の帰りを待っていた。

九条のケータイに連絡を入れたが、待てど暮らせど一向に返事が無いまま数日が経ち、さすがに業を煮やした怜奈は、彼の自宅前で待ち伏せる強硬手段に出たのだ。
無論この手の突撃を良しとしない九条が、怜奈の行動に顔を顰めるのは容易に想像ができた。
冷たい視線を浴びるかもしれない。だが「お詫び」という体で、彼に「奉仕」ができるのであれば、それは怜奈にとってもやぶさかではない。

それに数日前の「あいつ」との邂逅についても、九条に確かめておきたいことがあった。
九条からなんとか真相を聞き出せないものか、と多少の後ろめたさを誤魔化しながら、怜奈は授業が終わると、急いで帰り支度をして、高校を後にしたのだ。

そして九条邸の前で待つこと15分。
住宅街の曲がり角から複数人の気配と「九条」という声に、怜奈がハッとしてそちらに目をやった瞬間。

「………え?」

彼女は己の目を疑った。
そこには心ここに在らず、といったような、うわの空の九条と、その両隣から「おーい、九条~」と呼びかける篤史と慶介の姿。二人の声が全く届いていないのか、九条はどこかぼんやりと空中を眺めながら歩いている。

「なぁ、慶介。こいつ今なら殴られても気が付かないんと違うか?」

篤史がどこからともなくハリセンを取り出した。それを見た慶介が「やめとけよ」とやんわり制止する。

「まさかクスリか?クスリだけはやめとけって、中坊の頃から九条のねーちゃんがタコに耳ができるくらい言ってたけどな。」

「…耳にタコな。」

「なあ九条!クスリは!やめとけ!」

九条の頭にハリセンで突っ込みを入れようとした篤史が腕を振りかぶると、九条はそのぼんやりとした顔からは想像もできないような速さで篤史の腕をガシッと掴んで捻り上げた。

「あでででで!」

「言わんこっちゃない。」

慶介が胡乱な目をすると、九条はうわの空のまま篤史を地面に沈めながら、ふと我に返ったらしく「何してんだ、篤史。」と気だるげな声で問いかけた。

「何ってお前、今日お前ん家で宅飲みしようってグループトークに送ったじゃん!返事も寄越さねーから心配して見に来てみればこんなんだし!」

「…心配?」

「そうだよ!お前この間の土曜の一件からなんか変だぞ!赤レンガの!」

土曜、赤レンガ、と聞いて九条の目が見開き、再び彼の動きが止まる。起動停止した九条を見ながら、慶介がガリガリと頭を掻いた。

「…またトリップしちゃったな。」

「なあ、やっぱクスリじゃねーのか?」

トリップして力の緩んだ九条から逃れた篤史が、身を起こして身体の埃を落としながら怪訝な顔をして慶介を見た。当の慶介は飄々としながら「とりあえず」と呟いた。

「潰しちまおう。飲ませて真相を聞き出そうじゃねーか。」

慶介がガサ、と手に持っていたビニール袋を掲げる。中にはどこから調達したのか大量の酒が入っていた。

そして二人が九条の両脇を抱えて正面を向いたところで、九条邸の前で佇む怜奈と目があったのだ。
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